「保育園落ちた、日本死ね」への批判は、「日本死ね」に重きが置かれているが、それだけでいいのか。

少子化だから子供を産めと言われても、保育園がなければ産んだって育てられないとか、女性が活躍する社会を、と言われても保育園がなければ働けないじゃないかとか言って、山尾が保育園作れと安倍首相に迫ったが、保育園はそんなにいいものなのか

 

 子供の身になって見よ。まだ2歳にも満たない訳も分からない赤ん坊を他人に預けるのは本当にいいことなのか。

 

  保育園はそもそも何をするところなのか。ただ遊ばせているだけなのか。2歳から5歳程度までに必要とするしつけ等がおろそかになって、いびつな子供に育つかもしれないという心配はないのか。あと10~20年後に保育園は失敗だったと後悔しても、被害者は子供と社会そのものだ。

 

 保育園に育った子供とそうでない子供の社会学的医学的研究はされているのだろうか。

保育園とは家庭機能の社会化だ。ソ連が子供は社会が育てるべきという社会的実験をして失敗しているそうだ。

 保育園を増やすことばかり熱心になるのでなく、そして保育園を否定的に捉えたら即バッシングされるのでなく、日本の将来のためにもじっくりと保育園育児の功罪を科学的に考えるべきじゃないだろうか。

 

関連ブログを掲載します。

「…さて「待機児童」のことですが、単純に文字の並びから考えますと、その行為主体は、つまり「待機」しているのは「児童」であると考えるのがふつうです。…私のいいたいことは、「待機児童」ということばであるにもかかわらず、「待機」しているのは「児童」ではなくて、その「母親」もしくは「両親」だということです。

(中略)
子どもが自らの意志で保育所の入所を望むようなことは絶対にありません。「待機」しているのは、困っているのは、そのお母さん方、もしくはご両親です。子どもが保育所への入所を望むことが絶対ないと言い切れるのは、人間が「動物」であるからです。現代人はそのことをとうに忘れてしまったかのようです。


 動物の子どもが一定期間は母親のつきっきりの世話を必要とするものだということは、専門の勉強をしなくても、動物園に行ったときのことを思い浮かべていただくだけで十分なのではないでしょうか。なかには野生を失って子どもを育てようとしない親もいるようですが。もっとも最近はテレビ番組で動物を扱うことが多いようですから、わざわざ動物園に行く必要もないかもしれません。


 トラにしてもウマにしても、小さな子どもたちは母親の近くにいて離れようとしませんし、仮に冒険をしてちょっと離れたとしてもすぐに戻ってきます。母親もこれを拒むことはなく、乳を飲むのも、じゃれつくのも子どもの好きにさせています。私たちはそういう親子の交流をみて、ほほえましく感じるのです。その共感は、ヒトもそうであるという前提から生じるのです。
トラやウマはすぐに独り立ちしていきますが、これがサルになると、親子の接触を要する期間はさらに長くなります。
サルの方が脳が大きいからです。生物の身体機関のなかで、脳は大きさの割にもっとも成長に時間がかかるそうで、ですから脳が大きな動物になればなるほど親と接触しなければならない期間は長くなるのです。


また授乳期間だけをとってみても、トラやウマに比べてサルの方が長いのです。サルの種類は多く、それぞれに多少違うのですが、最短のクモザルでも1~2年、チンパンジーになると3~4年授乳しているそうです(山極寿一「父という余分なもの」)。授乳は母親しかできませんし、哺乳瓶もない世界ですから、チン パンジーでは少なくとも3年間は母親が子どもにつきっきりでなければならないというわけです。逆にいいますと、チンパンジーの子どもは、母親を3年間ずっと必要とするということです。


さらに一人前になるにはまだ数年かかります。その間、徐々に母親から離れて過ごす時間は増えていきますが、もしそうしている間に母親がいなくなるとすると、子どもにとって重大な事件となります。

 ヒトも授乳期間はチンパンジーと同じくらい必要ですが、成人の脳の大きさはおとなのサルの3倍ありますから、子どもが母親を必要とする期間はサルより長いのが道理であります。脳を成長させるといっても、知識をつめこむのではなくて、バランスよく機能させていくということであって、これにたいへん時間がかかるのです。つまり動物のなかで、ヒトは母親を一番長く必要とするものなのです。


ヒトの子どもは著しく「未熟児」として生まれてくるわけで、あらゆる面で支援がないとすぐに死んでしまいます。その支援を担うのは生んだその人です。生んだその人は、自分にお腹のなかで栄養を与え続けてくれた人であり、生まれたあとも最初に乳をくれた人であり、最初に排泄を喜んでくれた人であり、あらゆる面において支え助けてくれた人であります。
あるいは、ようやく歩けるようになった小さな子どもにも母親の支えが必要なことが容易にみてとれます。

 これはちょっと極端な例かもしれませんが、私たちはまちなかで、小さな子どもが母親に激しく怒られ、打たれている姿を目にすることがあります。ついにかんしゃくを起こした母親は彼を置き去りにしてさっさと歩いていってしまうのですが、そのあとを、彼は大声を出して泣きながら追いかけます。母親はそういう子どもの行動をわかっているのか、さらに早足になります。しかし彼は、ころびながら、それでもついていくのです。そして追いつくと、母親のスカートをしっかりつかんで、また大声で泣くのです。母親に再び怒鳴られ、たたかれながらもです。


 打たれてもついていくというのは大人からみると理解できない行動なのですが、そういう姿は、子どもがどれほど母親を必要としているかを表わしています。子どもはみな絶対的に、適切な表現ではないかもしれませんが、自分の母親であるかぎり、どんな人であっても好きなのです。それは理屈ではなく、動物の本能といってもいいようなものかもしれません。子どもはただひとりの母親に見捨てられたら生きていけないことを誰に教えられるわけでもなくわかっているのです。
 そういう子どもが、自らの意志で保育所に入ることを選択するはずはありません。ずっとずっと母親といっしょにいたいのです。保育所を利用することは、むしろ望まないことなのです。そしてまた、子どもを支え続ける役割は誰でもいいというわけにはいきません。子どもは一律の「もの」ではないからです。子どもはひとりひとり、それぞれのお母さん方の無二の子どもなのです。
(中略)
さて、こういうことを言いますと、女性たちから猛烈な批判をいただきそうです。が、本稿はそれを承知でお話しをさせていただくことになります。
もちろん私は、なかには子どものミルク代を得るために仕事に出なければならず、そのために子どもをやむをえずどこかにあずかってもらわなければならないお母さん方がいらっしゃることはわかっています。個別の事例を上げると確かに大変なことがいろいろにあるに違いありません。しかし私は、どうも議論は、主従があべこべになっているように考えるのです。


家族の話の中心は常に「子ども」でなければならないのです。私たちは動物であることを忘れてはいけません。「待機児童」ということばの中心にいるのは「親」なのです。
ただ最初にお断りしておきますと、私はかつての時代にあったような「男は仕事、女は家事・育児」という封建的な考えをもつものではなく、「自己実現」や「生きがい」といったものは性別にかかわりなく個人個人で求められるものであって、それが人間の一面であるということをよくわかっているつもりですし、また、子どもを育てるにあたって父親の役割が母親と同等に重要な意味があるということも認識している者であります。
私自身、実際に子どもを育てることに時間とエネルギーをかけてきた経験をもっています。もちろん、そのことは自慢などではありませんが、想像以上のものであったことは実感としてあります。想像以上というのは、私自身は両親から時間とエネルギーをかけられて育ったという覚えがないからです。


私の子ども、それは女の子ですが、あるとき学校へ行かなくなりました。その後私と妻とは、彼女は私たちの養育が誤っていたために人間として成長していくことが難しかったことに気づき、そこから彼女の「育て直し」を、また彼女は彼女自身で「育ち直し」を、家族いっしょになってやってきました。
今彼女は活き活きした大学生活をおくっています。彼女にとってはおよそ9年ぶりの社会というものだったのですが、私たち親は彼女の変化と成長に驚かされています。
脳科学者によると、ヒトの脳は二十数年かけないと「おとな」の脳とはいえないそうですから、まだ子育て中であることには変わりありませんが、これまでの経験によっても、私は子どもを育てるに要する時間とエネルギーの大きさを知ったつもりです。しかしそのことは、いわゆる「過保護」を意味しておらず、脳が成長するとはどういうことかを意味しているのだと思います。(後略)」(ブログ「真理・正義・平和」より)

 

 保育園に子供を行かせることは今や絶対的な正義になってしまっている。このブログ「真理・正義・平和」が言うように「待機児童」という言葉は変だという。待機しているのは親である。

全ての保育園を否定する気はさらさらないが、保育園を聖域にしてしまうことの危険は確かに存在するのであり、子供の立場というか子供の幼児期のあり方にもっと気を使うべきだと言いたいのである。

恐らく幼児教育を専門にしている学者は沢山いることだろう。しかし、保育園を聖域にしてしまえば、幼児教育学者の発言の自由は閉ざされてしまうにちがいない。本当にそれでいいのだろうか。