定年退職してから夕方の各局のニュースワイドをよく見るようになったが、必ず出てくるのがグルメリポートだ。人間、食べなければ死んでしまうが、余りの欲だけで食うことを見せられると言葉通り「食傷」してしまう。

 

 世界では飢えている人々が何億といるのに、と言ってしまいたくない。それを言っちゃおしまいだという感覚がある。だから貧しい人々への寄付でもして贖罪するか?それも感心しない。そんな誤魔化ししても飢えはなくならない。誤魔化しをしないで生きるなら開き直るしかない。

 

 そんな大げさな話ではなく、普通に食べるということを考えることにする。そうすると必ず我々は生きものを食して生きている。これも考えるときりがない。学校で命の大切さを教えるとかなんとかいうとき、食と生きものの関係において命の大切さをどう教えているのだろう。

とっても難しいことだ。全ての命は大切だと本気に教えたら、明日から生きていけなくなる。なんとか誤魔化すか食と生きものの関係をキチンと説明する論理が必要になってくる

 

 ある人が戦争否定の論理として「生命尊厳の哲学」を持ち出した。つまり戦争で人を殺したくない。だから戦争に反対だと。

「命は大切」なのは当然わかるのだが、「生命尊厳の哲学」という大風呂敷を広げた途端に、「私たちの命は他の動物等の命によって支えられている」という当然のことをどう説明するのか、という問題に突き当たる。

 

いや「生命尊厳の哲学」の「生命」には動植物は含まず、人間のことだけ言うんだ(「だってあなた、きのう豚か牛の肉か魚の切り身か何か食べたでしょ」といわれたとき、「いやぁ、豚やまぐろなどは生命尊厳の範囲外なんだよ。その動物たちの命はどうなってもいいんだ。マグロの刺身は美味かったなぁ」ってか。)ということなら、そんな「生命尊厳の哲学」はたいした哲学ではないことになる。

 

 「生命尊厳の哲学」といわず「人命尊厳の哲学」といえばいいのに。

「人命」に限定するとまたいろいろ問題が。つまり、余程考えた末でないと「生命尊厳の哲学」なんて言えないんじゃないか、という違和感である。

いや戦争に反対しているだけです、命って大事でしょう、自分も殺されたくないけど、他人は殺したくないんです、話し合いをすればきっと分かってくれると思うんです、という程度のことで「生命尊厳の哲学」を突き詰めていないとするなら、それはそう言う個人の問題ではなくて、平和主義者一般にある「生命尊厳の哲学」の底の浅さを示しているのではないかと思うのである。「生命尊厳の哲学」といった途端何か崇高なことを信じていると思いなして、思考停止してしまうという底の浅さを。

 

 そんなとき、村瀬学著「食べる思想 人が食うもの、神が喰うもの」は、「人」と「命」の関わりについて、食べるということから哲学しているのであった。

以下に一部抜粋してみる。

 

ここでの「食べる」ことの出発点は「姿形をしている生き物」が、その「姿」を失う過程を考えるところにある。それは、「姿形をしている生き物」を切り刻み、解体し、「姿」をなくしてしまう過程のことである。わたしはそれを「一口サイズ」の問題として取り上げておいた。

 ここで取り上げる「食べる」という過程は、この「一口サイズ」になることを考察する過程ではない。姿形をしている生き物」を「おいしい」と感じるようになる過程のことである。

他のいのちを食べても、胃に入ってしまえばもういのちを食べたこと自体自覚できなくなる。巨大なワニだって「一口サイズ」になれば「食べちゃう」存在になる。ここに心の反転が起こる。「姿形をしている生き物」を見ているときには、あんな動物食べるなんてそんなひどいことはできないわ、と言いながら、いざ「一口サイズ」になってお皿の上にちょこんと乗って出てくると、「おいしそう!」という感嘆の声を上げることになる。「可哀そう」の話が「おいしそう」の話にすりかわる。

他のいのちを大事と考える心と、さっさと食べてしまってほっとする心は、実は「折り合いがつかない」し、矛盾してしまうのである。でもその矛盾した形そのものが、そもそも「いのち」としてのあり方になっているのである。」(村瀬学著「食べる思想 人が食うもの、神が喰うもの」洋泉社より)

 

 この抜粋だけではよく理解できないかもしれないが、食べることと命の関係を突き詰めていく上で大いに参考になるといえないだろうか。