人生の苦しみを和らげる法12カ条
    

人生の苦しみを和らげる方法をお教えします。効果抜群です。トルストイが舞台のことで悩むチェーホフに伝授したもののようです。(井上ひさしさんの小説の上ですが…)

 

トルストイ わしはね、人生とは拷問室だと考えておる。
チェーホフ なるほど。痛めつけられて苦しむ、それが人生だとおっしゃるんですね。
トルストイ だから、きみが苦しいのは当然のことじゃね。
チェーホフ 当然とおっしゃってもそうとう苦しいんですよ。
トルストイ その苦しみを和らげる方法はある!それをわしは、簡潔に12カ条にまとめあげた。
チェーホフ 助かります。ぜひご伝授を。
トルストイ では--万事において、もっと不幸になったかもしれないのに、この程度ですんでよかったと思うことじゃね。
チェーホフ はあ?
トルストイ 脳みそに、この程度でよかったと思い込ませると、苦しみは和らぐものじゃ。これしかないよ。 

チェーホフ ま、深い教えである、とは思いますが。
トルストイ 

第一条、指にトゲが刺さったら、「よかった、これが目じゃなくて」とおもうこと。
第二条、泥棒に入られて、金を盗られたら、「よかった、命まで盗られずにすんで」とおもうこと。
第三条、ピロシキの中に釘が入っていたら、「よかった、これが毒じゃなくて」とおもうこと。
第四条、なにかの理由で警察に連れて行かれることになったら、「よかった、連れて行かれる先が死刑台ではなくて」とおもうこと。
第五条、どろどろの泥んこ道で転んだら、「よかった、ぐらぐらと煮え立った熱湯の中じゃなくて」とおもうこと。
第六条、妻に裏切られたら、「よかった、彼女が裏切ったのが祖国ロシアじゃなくて」とおもうこと。
第七条、恋人にふられたら、「よかった、女性が彼女一人じゃなくて」とおもうこと。
第八条、タバコの火で洋服を焦がしたら、「よかった、家じゃなくて」とおもうこと。
    
(中略)
マリア(チェーホフの妹) レフ先生、第九条からです。
トルストイ む?
マリア 先生の十二カ条ですよ。
トルストイ (ふらふらとなって)忘れてしまったわい。
オストローモフ これはいかん。レフ・ニコラエヴィチ(トルストイのこと)は、このところ血圧がお高いのだ。
スタニフラフスキー トルストイ先生、ご自宅までお供しますよ。
  ……

オリガ(女優、舞台のことで悩むチェーホフに向かって) …舞台へ持ち道具を忘れて出てしまったら「よかった、かつらだけは忘れないでいて」とおもうこと。

チェーホフ (間髪を入れず) 舞台の上でそのかつらが飛んでしまったら?
オリガ (すぐさま) 「よかった、飛んだのが自分のからだじゃなくて」とおもうこと。
チェーホフ 客席から「へたくそ、引っ込め」と野次が飛んできたら? 

オリガ 「よかった、腐ったトマトじゃなくて」とおもうこと。
チェーホフ 腐ったトマトが飛んできたら?
オリガ 「よかった、爆弾じゃなくて」とおもうこと。

    (逆にチェーホフに問う)書いている最中にペン先がポキンと折れたら?
チェーホフ 「よかった、指が折れなくて」とおもうこと。

   

トルストイが入ってくる。トルストイ、息を整えて、第九条を云おうとするが。
 

オリガ しつこいファンにあとをつけられたら?
チェーホフ 「よかった、政府の秘密探偵じゃなくて」とおもうこと。
オリガ 小説のアイディアに詰まったら?
チェーホフ 「よかった、これで散歩に出かけることができる」とおもうこと。

 笑い合う二人。楽しく抱き合ったりしている。トルストイ、マリアに。


トルストイ (小声で) 第九条を思い出して戻ってきたんじゃがほう、これはなにか新しい遊びじゃな。
マリア (うなづいてから、小声で)…こんな楽しそうな二人を、初めて見ました。

(井上ひさし戯曲「ロマンス」より)
     

 長々と引用してしまいましたが、どうですか。トルストイの人生の苦しみを和らげる12カ条は。12カ条まで行き着きませんでしたが、悩みのなかにいたチェーホフは、「よかった、〇〇じゃなくて」という使い方をマスターすることで、オリガと楽しく抱き合って、一時晴れやかな気分になったようです。

 

 「上を見るな、下を見よ」とか「もっと不幸な人がいる」と今の自分を慰める思考法に似ていますが、トルストイのそれはとてもユーモアのあふれたもの。トルストイが「ほう、これはなにか新しい遊びじゃな」といっているような使い方、今すぐにでも活用できますね。

 

 井上ひさしの「ロマンス」を読んだのは何年も前ですが、私もそれ以来心ひそかに実践しているのです。

「よかった、〇〇じゃなくて」と。