左翼は家族がとっても嫌いなようだ。先日参議院予算委員会で民進党蓮舫は、全く下らないというか呆気にとれるようなトンデモ質問を安倍総理にしていた。自民党の憲法改正草案で「家族は助け合わなければならない」などと規定した理由についてだ。

 

 「助け合わなければならない、これを憲法に規定するというのは具体的にどういう意味合いなんでしょうか」(民進党蓮舫代表)

 

 これにキチンと答えようとしない安倍もどうかしている。「家族は助け合わなければならない」という当然のことについて、「民進党は「家族は助け合う必要はない」と考えているのですか?」と堂々と突っ込めばいいのに。

今安倍政権は左翼連中と一緒になって「家族」を壊そうとしているのかもしれない。
  

 さて、家族の中の大黒柱であるはずの父親の存在が軽くなって久しいが、父親の存在について、古い本ではあるが以下のような文を見つけた。(別役実×朝倉喬司「犯罪季評」

(別役実は劇作家、朝倉喬司はノンフィクション作家)
 

朝倉喬司 日航機事故 (昭和60)で、お父さんの遺書をみて、バラバラだった家族がまとまった、という話があったでしょう。やっぱりうちのお父さんは偉かった、というの。ああいう話を聞くと、今の家族ってのが、誰かが不在になることによって立ち直るしかないみたいなところがわかって、身につまされます。

  別役実 特に父親ね。父親は不在によってようやく存在する。データははっきりしないけど、船員の家族って安定してるんだって。父親が一年とか半年とかいないわけでしょう。でもお父さんの権威って断然たるものがある。久しぶりに帰っても、オレがオヤジだって平然として、その不在がほとんど問題にならない。そこへいくと単身赴任というのは

 朝倉 不在が中途半端なんです。

 別役 うん。単身赴任には不在の理由がない。会社の命令で「行け」って言われて、オレはいやだ、冗談じゃないと抵抗するわけでもなく、いやいや行っているわけでしょ。父親としての形而上学がないんだね。

 朝倉 死ぬことによって、ようやくある種の絶対的存在になる。

 別役 つまり、父親というのは、形而上学的な存在なんです。フィクションなんです。

 (別役実×朝倉喬司「犯罪季評」(朝日文庫)より)
 
   私も父親として失敗してしまった気がするが、父親の存在って難しいものでだ。私の親爺もはっきりいって申し訳ないが尊敬に値しなかった(教育に関しては惜しみなかったことだけはありがたいと思っているが)
  何と言っても母親のほうが存在が大きかった。一般的に言っても父親ってどうあるべきなのか、よくわからない。団塊世代の父親、つまり子供に対して友達のような理解ある父親、そんな父親像が益々父親としての権威を失くしてしまった。だからといって
 
 

 大嫌いな左翼大御所上野千鶴子の、昔読んだ文のなかのエピソード。

「父親が居間で一人でくつろいでいる。二階から降りてきた息子が、居間を見まわして「なんだ、誰もいねえや」」  

  父親不在!見えども見えず!「つまり、父親というのは、形而上学的な存在なんです。フィクションなんです。」(別役)は、ほんとにそのとおりだと思う。

朝倉が「死ぬことによって、ようやくある種の絶対的存在になる。」と言うが、そうかな。死んでもある種の絶対的存在になるなんていえるかな。そう簡単ではない気がするが。

  何でこうなってしまったのか。男の受難が続く。だから男はなかなか結婚しないのかもね。