もう一つ太宰治から。

太宰は嫌いと言いながら、結構気に入っているのかもしれませんね。


これから引用するのは「フォスフォレッセンス」(「グッド・バイ」新潮文庫所収)という題名の短編。筋書きはここでは置いておきます。

母と娘の会話への太宰の解釈になるほどと思ってしまいました。

 

「まあ、綺麗。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」
「あら、お母さん、それは夢よ。」


 この二人の会話において、一体どちらが夢想家で、どちらが現実家なのであろうか。母は、言葉の上ではまるで夢想家のようなあんばいだし、娘はその夢想を破るようないわゆる現実家みたいなことをいっている。
 しかし、母は実際のところは、その夢の可能性を微塵も信じていないからこそ、そのような夢想をやすやすと言えるのであって、かえってそれをあわてて否定する娘のほうが、もしや、という期待を持って、そうしてあわてて否定しているもののように思われる。
 世の現実家、夢想家の区別も、このように錯雑しているものの如くに、此の頃、私には思われてならぬ。
(太宰治「フォスフォレッセンス」(「グッド・バイ」新潮文庫所収より)

 

 近頃というか戦後70年、SEALDsによって団塊世代が息を吹き返したような左翼人士たちは、ここでの「お母さん」のようではないか。

 平和も民主主義も「実際のところは、その夢の可能性を微塵も信じていないからこそ、そのような夢想をやすやすと言える」という隠れたそしてひねくれた現実主義者たちなのだと思われる。


 橋下元市長もまた直接民主主義を信奉する人たち(小熊英二や高橋源一郎たち)も「民意」を叫ぶけれど、ここでも「実際のところは、その夢の可能性を微塵も信じていないからこそ、そのような夢想をやすやすと言える」のかもしれない。