日弁連が明日7日に福井市で開く人権擁護大会で死刑制度廃止の宣言案を提出するとのことで、いろいろ批判が出ている。

 

「…犯罪被害者の支援に取り組む弁護士らでつくる「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」は「犯罪被害者の人権や尊厳に配慮がない」などとして採択に反対する声明を発表した。

  声明では、弁護士の中でも死刑に対しては様々な考えがある中で、「強制加入団体である日弁連が一方の立場の宣言を採択することは、日弁連の目的から逸脱し、個々の弁護士の思想・良心の自由を侵害する」と指摘。

「凶悪犯罪の被害者遺族の多くは加害者に死をもって償って欲しいと考えており、宣言は被害者の心からの叫びを封じるものだ」と批判している。」(朝日新聞デジタル)

 

左翼弁護士は何故か日本を遅れた国のように言うが、世界の趨勢がどうあろうと日本には日本の死刑に対する考え方がある。

 

死刑存置論にはいろいろあるが、小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」の中の「第九問死刑は廃止すべきか」に書かれた死刑存置論が私にとって一番納得できる理屈であった。

それを書き留めてみた。

 

小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」(洋泉社新書y)より。

「多くの人が死刑存置を支持する判断の根底にあるのは、おそらく、被害者に対する配慮を起訴とした、社会的な公正の感覚の維持という動機である。

…私は、死刑が現実に頻繁に執行されようが、ほとんど執行されなくなろうが、基本的に「極刑」の概念を保持している社会のほうが、これを捨て去った社会よりもバランスのよい社会と考える。

…「極刑」の概念は、おのれの生命を供しても償うに足りない罪がこの世にはありうるという考えを基礎としている。

…「死刑を廃止する」ことは、単に「死刑を行わなくても済むようになる」こととはちがう。それは法体系の中から、「極刑」の概念を放逐することを意味するから、法が、ありうるかもしれないとんでもない事象に対する究極的な対応の手段を捨て去って、判断の幅をその分だけ狭めることを意味するのである。

…死刑を法的に廃止することは、「何をやっても殺されることはないのだ」という考え方を社会の側から公式に基礎づけてしまうことになる。

…そういう考えを基礎づけてしまうことは、人間社会全体から究極責任の考えを抜き去り、最終的には人倫の内的秩序を崩していくことにつながると思う。「万死に値する行為」の概念を人間は捨てないほうがいい。」

 

  死刑廃止論はそれなりに支持者がいるようだが、死刑廃止論者にいつも感じる違和感は、死刑囚に寄せる同情をもっと被害者に寄せることはできないのか、ということだ。光市母子殺人事件の弁護団を見ると特にそう思う。

   まあ、あの弁護士たちはイデオロギーのための活動をしているだけだから何をいってもムダだろうが。