今回は《喜怒哀楽》の『哀』
私の母は苦労の連続の人だったと思います
《母は18歳で結婚、男2人女3人の5人の子供を
育ててくれました、私は末っ子で長兄とは一回り以上違います》
父は、一言でいえば“ろくでもない男”でした
子供心にも
“なんでこんな人と一緒に居るのか不思議だった”
母の口癖
“子供が皆 成人し結婚したら・・・それまでは我慢”と
何回となく言っていたのを覚えています
自分のことよりも、子供を片親にすることに抵抗があったようです
そんな父は、風呂場で倒れ火傷からの敗血症により
2009年4月に亡くなりました
母は、2019年5月に体調を悪くして救急搬送されてから
同年11月まで入院生活でした
私は3月の術後、抗がん剤治療中
車の運転は控えてましたから
旦那の休みの日に病院へ連れて行って貰いました
(一度だけバス・電車・乗り換え・電車・タクシーを
使い病院へ行ったら2時間以上かかり…途中フラフラでした)
母は旦那のことを“○○ちゃん”と呼んでいましたから
病室での面会で『○○ちゃん 来てくれたの』と
嬉しそうにしてました
いつだったか私が母に
『(私の事)誰だかわかる』と聞いたら
『分からない』 マジで
『(旦那を指して)この人は分かる』と聞いたら
『分かる ○○ちゃん』と答えました
冗談だったのか ボケてしまったのか
今となっては確認のしようがないんですけどね
結構 お茶目なところのある母でした
以前ケアハウスに通っていた時も
『あそこは年寄りばっかりで嫌だ』と言ったことがありました
それを聞いたとき
《おいおい ちかちゃん(母の名前)も年寄りですから
》と
爆笑
入院している母に私の病気(癌)のこと
最後まで伝えることは出来ませんでした
元気だった頃の母はとても勘の鋭い人でした
私は20歳過ぎから一人暮らしをしていました
実家に行くと『元気無いね 何かあった
』
『ちゃんとご飯食べている』とか
私の顔色を見抜く人でしたので
私は病気の事を伝える事が出来なかったけれど
母は気が付いていたのではと思っています
夜中に長姉から
『(母が)危ないかもしれない』と電話がありました
そして・・・数時間後に亡くなりました
2019年11月9日
母死去
一人では行く事が出来ないので夜が明けてから
下の姉と連絡を取り一緒に行く事にしました
母との対面
病院のベッドで寝ていた時の顔よりも
とても綺麗で穏やかな顔でした
私は母から言って貰えた忘れられない言葉があります
“〇〇(私)ちゃんを産んでおいて良かった”です
当時は生活が苦しかったので中絶も考えたそうです
実家で問題がおきると私に連絡がきました
【ここだけの話しですが
《我が家の男兄弟は全く頼りにならないし、2人の姉とも相性が
合わない みたいでした》】
なので、何かがあると私へ・・・
だから“〇〇ちゃんを産んでおいて良かった”と
言ってくれたのだと思っています
ちかちゃん
私を産んでくれてありがとう
親不孝な子供でごめんなさい
癌のこと隠していてごめんなさい
今まだ癌と闘っていますが
負けずに最後まで闘うからね
ちかちゃんの子供で幸せだったよ
心からありがとう
ありがとう