明るい光を求めてアルルに移ったゴッホは孤独であった。一緒にアルルで制作したいとゴーガンを誘った。夏になり日差しが強くなると肺葉の光にさらに目覚めてくる。1888年10月末になりついにゴーガンがアルルに来た。二人で理想的な画家生活ができると期待したゴッホは共同生活を始めた。二人のいた黄色い家は今はもうない。ただ同じころに描かれたカフェはまだある。

僕がアルルを訪ねた時は、このカフェは未だにカフェであったが、ゴッホの描いた世界とはかなり感じが変わっていた。

 ゴーガンの描いた『ひまわりを描くゴッホ」だ。最初は良かった。しかし、激情家で反発心の強いゴッホと、冷静で自信満々のゴーガンでは二人の対決は時間の問題であった。

 この頃より、ゴッホの精神発作がしばしば発現している。当時のゴッホの精神状態の報告書がある。「彼は支離滅裂な言葉を並べ立てており、完全な錯乱状態にある。特に幻聴と毒を盛られているという妄想のとりこになっている」とある。

 当時の精神病の治療にジギタリスを用いられた。紫の手袋の指の形をした花の植物である、ジギタリスの成分のジギトキシンは心臓病の薬として今も使われる。しかし、当時は精神病の癲癇、痙攣、躁病などの治療にジギタリスが使われた。実はこのジギタリスの副作用に「黄視症」がある。視野全体が黄味がかって見えるのだ。また黄と青の視覚不調が出て、黄色のフィルターを通したように見える。

 ゴーガンとの共同生活はしばらくは良かったが、ゴッホの持つ強烈な自尊心と反抗心がある日異常行動として出る。1888年12月23日に、ゴーガンは剃刀を持ったゴッホに襲われそうになった。それに気づいたゴーガンは共同生活の黄色い家には戻らなった。そしてゴッホは娼婦館にて自分の左耳の下を剃刀で切り、それを娼婦に渡す事件が起きた。

 この事件後にゴッホはアルルの病院に入院した。この病院の建物は今でもある。ただ中は下の階がお土産屋であり、中庭が当時の姿のまま残っている。

このアルルの精神病院ではさらにジギタリスの治療が集中して行われた。

 当時、友人でもあった画家のシニャックがゴッホを見舞いに来た。落ち着いてきたので黄色い家に戻した。しかし、夜にまた痙攣発作を起こした。狂気の発作でテーブルの上にある絵具を薄めるテレピン油を瓶ごと飲み干そうとした。この為にまた病院へと引き戻した。ゴッホの弟のテオへの手紙には「自分の精神の異常は自分も認める。でもそれはこの夏に到達した強烈な黄色の調子を出すために自分を高く持ち上げたんだ」と述べている。精神障害への治療のジギタリス薬の副作用の「黄視症」が黄色の世界に目を開かせただけでなく、その強烈な色彩がゴッホの精神の限界をも超えさせてしまったと言える。そして、この「黄視症」と「神経症による宗教的幻覚」が目に見えるものを超えた幻想的な想像力を高めたと言える。この黄色の狂気こそがアルル時代での15カ月に及ぶ200点もの強烈な色彩の油彩画を描かせたともいえる。