これは有名なゴッホの油彩画の「ひまわり」で、1889年作だ。

これは花瓶のひまわりとして描かれた7点のうちの一つだ。ゴッホの色彩の特徴は、この「ひまわり」に代表される「黄色」の鮮やかな色彩だ。しかし、ゴッホは最初からこのような鮮やかな黄色い色彩では描いていなかった。

この絵は同じゴッホが描いた「ひまわり」で1888年8月の作だ。前の写真にあるような1889年作に比べて地味な色彩で描いている。この色彩の変化はどこから来たのであろうか?

まずはゴッホの軌跡を追ってみよう。そもそもゴッホは学校を退学になり、画廊職も務まらずに伝道師学校に入り伝道に傾倒した。しかしそれも果たせずに、デッサンから始めて絵画を始めたのだ。当時の絵画は無彩色のデッサンから始めた。

さらに色彩を使う油彩画でも、炭鉱町でので伝道師見習い失敗や失恋などを契機に、30歳ごろより油彩画を始めた。当時は農夫などの家族を暗い色彩で描いている。この絵は1885年4月の作だが、当時のオランダの暗い風景とゴッホの暗い精神世界も感じる。当時の信仰心の厚いゴッホは、伝道師見習い中に、労働者への無私の献身をして感謝はされたが、金も衣服もすべて与えるなど、正気の沙汰では無く、伝道委員会から、ゴッホは良識と精神の均衡に欠けるとされて、解任されている。

 1886年になり、弟テオを頼って、突然にパリに向かった。ここで、ゴッホは当時の革新的な絵画変化の印象派の絵画に出会った。また日本の浮世絵も見て衝撃を受けている。そして、この後から急激にゴッホは明るい色彩を使うようになった。ただ、印象派の点描法では無くて、ゴッホは筆触に沿って絵の具を置くように描く方法を開発初している。

 さらに1888年には突然い南仏の明るい太陽のもとであるアルルに住んでいる。ゴッホは言う「日本の浮世絵のような明るい光を求めて、南仏に行かねばならない」と述べている。アルルでは他人と口を利かない孤独な生活であった。この孤独感から逃れようと、ゴーガンに、一緒にアルルで制作したいと、手紙に書いて誘ったのだ。1888年10月末にゴーガンがアルルに来た、しかし激情家で反発心の強いゴッホとエリ製で自信満々であるゴーガンでは、対立することが起きた。

 この頃より、ゴッホの精神発作がしばしば発現している。これに対して、当時の治療法としては「ジギタリス」の内服療法が行われた。このジギタリスの副作用として「黄視症」というものがある。ジギタリスを内服すると、何でも黄色く見えてしまう、という見え方の副作用が出ることがあるのだ。

ゴッホの生涯でただ1点だけが売れたが、それがこの「赤いブドウ畑」(1888年11月)なのだ。この絵でも空の色に黄色が使われるように、ジギタリスの副作用がこの頃からゴッホの視機能を変化させてきているのだ。(続く)