図:アフリカ眼科学会講演後のサファリにて。望遠カメラで見ていた筆者の目の前に突然ライオンがいる場所に出くわした。

 近年日本でも、具象画しかもスーパー・リアリズムと称した絵画が多い。鑑賞者も「わー、写真見たい!うまい!」などと褒めている。でもはたして、人間は一見リアルに見える具象画のように物を見ているのであろうか?写真を使用して描いたであろう、美人画や静物画を見ていると、確かに写真みたいであるが、写真みたいであるが故に、嘘くさく見えてしまう。ちょうど、近年のCGが多用される映画のようである。映画のシーンで、ぶつかった車や飛行機が破片もろとも飛んでくるCGのシーンを見て、嘘くさいと感じている観客は多いであろう。スタントマンを使った実写にはかなわない。

 結論から言おう。実は、人間はけっして、CGでの映画シーンや、スーパー・リアリズムと称する具象画のようには見ていないのである。人間は写真のようには物を見ていない。なぜならば、人間の眼の構造でわかる。眼の中心は錐体細胞となり、これで細かな線を見ている。しかし、網膜の周辺に行くと、錐体細胞が減少して桿体細胞が増えている。この非常に狭い中心窩で見ている微細な表現は狭い視野の中でのみ真実である。中心の周りの網膜では映像をぼんやりと見ているのである。

 視覚の働きには2種類があると言える。中心窩の錐体細胞で主に見ることを「中心視」と称し、周辺の桿体細胞主体で見ることを「周辺視」と呼び、二つの分業された視機能があるのだ。実際の動きを見るときなど、「周辺視」でわずかに動くものを見て、大まかな変化や動きそのものを認識し、その認識に基づいて目や体を動かして、網膜の中心部で物を見て「中心視」で細かな形や色などの詳細を認識しているのである。つまり、中心から周辺まで全てが微細に見える、スーパー・リアリズムと称する具象画は「写真には似ているが、人間の見方とは違う」のである。であるから、素人の方が、「わー、写真のようにうまい!」と感嘆するのは、ブラックジョークではないだろうが、見当外れとも言える。

  中心視は部分視とも言える。空間的な構造の「詳細」を把握できる。一方で、周辺視は「全体視」とも言える。空間的な位置関係を把握できる。時間的に変化する情報に敏感である。もしも、中心視のみで物を見たときは全体像を把握することなどできなくなる。仮に目の前にライオンが居て、望遠鏡だけで観察してライオンの眼だけをみていると、何を見ているかわからないままにライオンの目の前に出る羽目になる(図)。中心視だけでは全体を把握できない。つまり、人間の見方は周辺視で大まかな視覚情報を得て、これを中心視で細かな情報として確認する様にできている。

 絵画でも同様である。私の絵画の師匠の佐々木豊氏は常々、自分の描いた絵を離れた距離から見よと諭す。これは、まさに人間工学的に正しい態度である。人間は周辺視野を主体に普段は見ており、中心視野はそのなかで特に詳しく見たいものを抽出して見るものだからである。私もモデルがあまりにも美人だと顔ばかり気になりそこばかりに集中して、肝心の絵画としての面白さが死んでしまうことを経験している。微細な美人画にうっとりはするだろうが、実際の人間の見え方とは異なっている。まさに絵空事の世界ではある。

 周辺視の活用はスポーツでもある。動体視力は周辺視が得意なのだ。周辺視で動きのある物を見て、その上で目を動かして中心視でそれが何かをはっきりと知るのだ。スポーツは動きを伴うので、動体視力が良い周辺視がより重要となる。例えば、剣道の選手は竹刀を見ずに相手の眼を見る。周辺視で竹刀を捉えるのだ。ハイジャンプの選手はバーを見ずに地上のマークを見る。また周辺視で足元を見る。体操選手は床でも平均台でも遠くを見て演技をする。周辺視で足元を見る。周辺視の方が動きを伴った大きな動きは的確にとらえられる。これはまさに絵画の見え方と同じなのだ。