「硝子体出血時の見え方(1930年)、ムンク」

絵画は硝子体出血により、ムンクがどのようにめていたかの観察となる。丸い塊は出血で上に鳥のような線維が見える。向こうには一部が人の映像が見えている。

 ムンクの病歴で残っているのもを調べた。昔からムンクは視力が悪かったことは分かっているが、原因と発現時期は分かっていない。1904年にムンクは喧嘩をして殴られた記録がある。その頭への衝撃が左目の視力低下や後年の硝子体出血に繋がった可能性はある。さらに、1930年には良い方の右目にも硝子体出血が引きおこり、もはや両眼とも見えなくなった。

 ムンクはオスロのラエダー医師の治療を受けている。医師の診断はムンクが長い間忙しすぎて不摂生をいたことが原因であるとした。ムンクは精神病院に入ったといえ、インテリであり自ら希望して入所している。酒におぼれたこともあるし、食事もちゃんとせず不摂生な食生活でもあった。糖尿病によるものか、血管の閉塞によるものか、それとも両方が原因かの硝子体出血であろうと思われる。

 このように目の中に出血が充満し見えないだけでなく、網膜剥離になる可能性があるので、現代では速やかに硝子体手術で治すものだ。しかし、当時の眼科はまじないしのようなものであり、満足な手術療法など望むべくも無かった。僕自身はこの硝子体出血への手術を実に多く施行している。現代の最先端な世界標準の眼科外科であれば完全に治せるが、ムンクの時代には硝子体手術自体が存在しなかった。

図:ムンク「硝子体出血での、ムンクの自覚した像」(1930年)

ムンクはオスロのラエダー医師の治療を受けたが、医師の診断の助けになると聞かされて、自らの見え方を、上のような絵に描いて、17年間も観察を行っている。

ただし、ムンクの出血は自然吸収されていった。ドイツ現代美術などに大きな影響を与えたムンクだが、第二次世界大戦にノルウェーが占領されて、ナチスからはムンクの絵を退廃芸術であると多くの美術館から排斥された。その後はムンクはナチス占領軍とのかかわりを避け、より人嫌いになり、自宅で自分の為に絵画制作に励んだ。

晩年になると憂鬱発作のふさぎ込む自画像など制作している。子供の頃よりあった、生と死の境界をさまよう強迫観念からは一生涯逃れられなかった。老年期には生と死が不可分である感覚がよりすさまじい絵画表現となっている。

 これは最晩年の「窓べの自画像(1940年)」絵画で、生と死の対比を描いた。顔と背景の赤が生を表して、窓の外の雪と氷の凍てついた風景が死を連想させる。一瞬の勝利の「生」があるが、いつかは「死」が訪れる。自画像の絵の中で、自らが人生の最後の瞬間まで、生と死の境界を彷徨い、そして和解していった表情が読み取れるのではないか。

 1943年の80歳の誕生日には多くの祝辞が寄せられた。それでも孤独なムンクは誰とも会うことをしなかった。そして1944年1月23日に、ムンクはたった一人で息をひきとった。人々が様子を見に来た時はムンク家の門は錆びついていたという。

 ムンクの死後残された、1100点の絵と18000点の版画や手紙はオスロ市に寄贈された。ムンク生誕100周年記念で、オスロ市立ムンク美術館ができた。また、2001年のノルウエーの最高通貨の1000クローネの肖像画はムンクの顔が採用された。いまやノルウエーを代表する文化人と認知されているのだ。