図はムンクの「病める子」1885年

 ムンクは1863年にノルウエーに生まれた。ムンクの母親は敬虔なクリスチャンであったがムンクが5歳の時に30歳で結核で亡くなった。母親は死の床で息子に手紙を書いた「人生は多くの誘惑に満ちているから主イエスを信じて生きなさい」と。しかし、ムンク14歳の時には1歳上の姉が同じく結核亡くなった。上の絵はこの姉が病床にいる時の絵である。姉の死が重なり、こうしてもはやムンクは神を信じることができなくなった。1889年には愛情と反発の対象でもあった父が亡くなった。1895年には弟も30歳で肺炎で亡くなり、妹もヒステリーの診断で精神病院に入院した。ムンクは「私は人類の2つの敵である、結核の遺伝子と精神の病という負の遺伝子を受け継いだ」と彼の家族の不幸が作品の中に影を落としていく。このような事情を知らないとムンクの名作の「叫び」を後年に描いた意味が分からない。

 ムンクの作品が不思議な感覚を抱かせるのは、体験した後に長い時間を熟成させて頭の中の精神世界の記憶から描いていることが理由でもある。

 この「叫び」を描いた9年前にインドネシアで火山の大噴火があった。この塵が世界を飛び3年間も空気が濁った。光学的な現象だが、短波長の青い光は空気中に塵が多いとすぐに散乱して消えてしまう。一方で長波長の赤い色は散乱せずに長い水平距離を飛んできてより強調して見える。つまり空気中に塵が多い条件では空が真っ赤に見えるのである。他国の同時期の風景画でも「夕焼けが血の色のように真っ赤で帆脳と思った」とある。またこの地はフィヨルドで強い西風が吹き込むと気流が上下して雲が上下にうねる。この時の記憶をムンクは記憶していて、後年に自分の精神的不安を表現する手段として描いたのだ。

 一般の方は誤解しているが、色というものはそもそも存在しない。3種類の網膜の錐体細胞に光が当たり電気信号を発する。この信号が後脳に伝わり、電気信号の割合を前頭葉の記憶と照らし合わせて色として認識するのだ。つまり学習者が空は青で太陽は赤いと学校などで習って、そう認識していると、そのような空は青で太陽は赤色として感じてしまう。一方でムンクの作品の色彩は通常とかなり異なる感覚がある。これはムンクの精神世界がかなり異なることが大いなる原因になる。そして鑑賞者はムンクの絵を通常とは異なると感じて「自然ではない」という色彩と形を感じる。通常は認識は脳の海馬が働くが、ムンクの絵を見ると「自然ではない」ので、前頭葉の中頭前回という場所が活動して「通常と違う感覚」を自覚する。これが多くの鑑賞者に「驚き」の感覚をもたらす。そこにムンク絵の人気の秘密もある。

 前に紹介したムンクの最も有名な絵画の「叫び」をコペンハーゲンで最初に展示したときに、観客の一人が実は絵の下に落書きをしている。「こんな絵を描けるのは正気を失った人間だけだ」と。今でもよく絵を見ると書いてあるのが分かる。ムンクはあえてこの落書きを残している。意図したのかは別として、ムンク自身が自分の精神状況が正気を失っているとの指摘を分かっていたのであろう。

 当時は、多くの人がムンクの絵が良識や道徳を踏みにじるものだ、敵意に満ちた挑戦だ、とムンクの絵画を理解していなかった。今でも日本人には特に多いが、新しいことや理解できないものへの拒否反応や、匿名者を装った悪口雑言は目に余るものがある。ただし、これは弱者脳の反応と理解すれば自然なものである。つまり、過去の学習記憶に合致したものは受け入れやすいが、理解できないものを否定したり、けなすのは一種の強者を避ける弱者の防御反応なのである。

 ただし、ムンクには絶望の精神があるが、テーマ自体は「愛と死」にあるのだ。

 これはムンクの「思春期」(1894年)だ。やせた小さな胸の少女は、大きく目を見開いて、陰部に手を重ねて足を固く閉じている。ベッドには初潮の出血がみられる。ムンクは愛を求め、愛に満たされない自分、幼少期よりの死の影の呪縛を引きずっている。少女の背後にある不安な未来を暗示させる。ムンクは「私は自分の影に怯える。私は母、姉、祖父、父らの死者達を、自分の死への道ずれに生きている」と述べている。色はもともと存在しない、過去の学習により色が決まると述べた。これに似ているが、生きることの価値観や喜びにも絶対値は無い。脳の学習で得た幼少期の経験などから、人生の演繹的な価値観が決まる。この為にムンクは自分の人生を説明するように絵を描いているのだ。(続く)