視力が低下してきたドガにはいくつかの治療の試みがなされたのです。当時の一部で行われた中央に穴の開いたピンホールメガネが処方されています。ピンホールメガネとは入ってくる光を制限することで、光の屈折をしなくても焦点深度を上げることになり、近くや遠くが見えますよという原始的な方法です。ドガは光による網膜障害があったので光を制限するという意味合いもありました。ただし、このピンホールメガネは物理実験としてなら興味深いですが、今も昔も実用性はありません。眼科医もどきの方がピンホールメガネで目を治すなどと言ったたぐいの、なんちゃって本を出しています。でもこのピンホール効果は、よく見えないときに近視の方や老眼の方が目を細めてみようとする行為と同じで、眼鏡が無くてもわずかでも見えたらよいといった意味だけです。ましてや、ピンホールメガネで目の病気が治るわけがありません。眼科の治療については、現代でも結構嘘八百なやり方が、世の中に渦巻いているのですね。

 このドガの晩年の自画像は、前にお見せしたドガの弟の妻で盲目のエステルの目線と似ています。見にくい目線の表現が実に的確に描かれているのに感心します。

 実際のドガのメガネがパリのオルセー美術館に収蔵されています。これを調べると、近視性の斜乱視があったことが分かっています。ドガが罹患していたと思われる目の病気の網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa、色素性網膜炎)為に、目の構造上重要で角膜の大部分の組織である膠原繊維が緩んできて、乱視が起きやすくなり斜乱視になったのではないかと推察します。

ドガの生涯の最後の20年間ほどは視機能低下が悲惨なものになっていました。当時の眼科では治療ができない為に、網膜炎が悪化して、1910年過ぎにはほぼ完全に絵画を断念しているのです。そして最後には手で触ってかたどることのできる彫塑だけが残ったのです。

これはドガが残した粘土を、ドガの死後にブロンズ化したものです。

 1912年にはドガのアパートは取り壊しが始まり立ち退き余儀なくされたのです。視力を失いつつあるだけでなく、この頃は聴力も失って来て、ドガは「私が考えるのは死のことだけだ」とさえ述べています。当時のパリの街角では、長い白髪と顎髭で、杖を頼りにパリの街中を歩くドガの姿の目撃談が記載されています。

 ドガは1917年9月27日に死去しているのですが、ドガの部屋からは驚くことに大量の蝋と粘土の彫塑像が見つかったのです。生前のドガは服を着せて評判になったバレリーナのブロンズ塑像の「14歳の踊り子」以外の塑像作品は展示したことが無かったのです。

 ところでドガの弟子のような友人のようでも会った印象派の女流画家のメアリーカサットは、塑像をブロンズ化するのはドガの意思に反すると反対したのです。しかし結局はオルセー美術館やメトロポリタン美術館などでみるように、ドガの大量のブロンズ像として世の中に出たのです。

 この弟子のメアリー・カサットも同じころに白内障手術を受けたのですが、糖尿病性網膜症もあり、結局は失明しています。20世紀初頭の画家にとり、眼病による苦悩や失明への恐怖は現代の比では無かったのです。僕も多くの世界中の芸術家の白内障手術や網膜手術を行っています。幸いにして僕の行った著名な芸術家たちの手術術後視力は大変によくて、多くの作品を生み出しています。ドガの時代の目の手術は、現代の世界最先端から見れば、ほとんど役に立たない危険な方法でもあったのです。