モネは白内障により、色彩の感覚も失いものもよく見えなくなりました。水晶体がほぼ透明から黄褐色に変化するのが白内障の変化です。黄色やオレンジの補色が青や紫です。つまり白内障の水晶体レンズにより青や紫などの波長の電磁波が吸収されて、青や紫や濃緑色が黒っぽくなり区別できなくなります。モネの手紙にも「もはや色も判らず、赤も土色にしか見えず、桃色や中間色は全く見えない。青や紫また濃い緑は黒く見える」と苦悩を述べています。

 当時のモネの友人でフランスの文化大臣であったクレマンソーが新しい美術館に、モネの睡蓮の絵を展示したい、とのプロジェクトを立ち上げました。オレンジの温室であった建物を美術館としており、この為に名前はオランジェリー美術館です。モネはもはや絵が描けないと断ります。モネは「もはや自分は失明状態である」と述べています。しかし、、クレマンそーの勇気づけもあり、パリの眼科外科医のクーテラによる右目の白内障手術を決断します。1923年に古典的嚢外法で手術施行しております。半年で3回の手術を行いました。

 当時の白内障手術は失敗率が高く、うまくいっても対して視力が出ず、勇気のいる決断でした。1850年代に開発されたドイツ人医師のグレーフェ医師による手術方法が一般的でした。グレーフェ刀で角膜と水晶体を切るものです。

これはモネの白内障手術後の写真です。保護眼鏡をかけています。

これがモネが掛けていた手術後の矯正凸レンズメガネです。右目のレンズですが、色補正の色がついています。左はくもりガラスにして見えないようにしています。手術後にモネは「物が大きく拡大して、歪んで見える。色彩の感覚も全く違う。もはや画家の目は失われた」と嘆き落胆しています。

 当時の技術はこんなものなのです。現代の白内障手術は僕と多くの欧米の医師が開発した近代的な超音波乳化吸引術と眼内レンズ移植術。特に僕はまさに中心にいて世界最初の開発から関係している多焦点レンズ眼内レンズ移植術で、手術後にすぐに裸眼で近く中間遠方と全てが裸眼で見えます。僕自身は40年ほどの眼科医キャリアーがあり、白内障、緑内障、網膜剥離、などの手術を毎年7千件以上行っていますので、すでに20万件以上の手術経験があります。そもそも眼科外科医になった時に最初にアメリカで修業して、患者の目を裸眼で全ての物が見えるようにさせたい、と強い願望を抱きました。ドイツの医師と共にレーシックを開発したり、カナダやアメリカの医師と多焦点眼内レンズを開発したのもそれが出発点です。

 一方でモネの時代は、白内障手術でさえ、かなりのリスクを伴う試練だったのです。しかし、モネはピンク、青、紫や緑の色が再び見れるようになり、84歳から再び睡蓮の連作を開始したのです。(以下続く)