昨年、お不動さんに呼ばれた気がしたので、紅葉直前ではありましたが、
神奈川県伊勢原市にあります 大山寺へ行って参りました。

因みに、30年は前になりますか?私が大山へ行き始めた頃、
「大山に来るようになると、お酒を飲まされるよ・・」
と お土産物屋のおば様に言われたのですが~
あら、不思議!
それまで、1滴も お酒を飲めなかったのですが、その直後から 本当に お酒をゴクゴクと飲むようになってしまいました。。
もしかして、憑依?。。
(^o^;)

今回、久しぶりに お不動さんに呼ばれたということは。。
これから、「調伏」的な要素が必要とされるのかもしれません。
私個人のことなのか?全体の傾向になるのか?は、分かりませんが。。
(一応、「調伏」と言っても 呪って倒す方の「調伏」ではありません。
俯瞰と愛念は欠かせません。)

全体のことだとしたら、近頃では、エクソシストが減少しているという噂もありますから それぞれの場面で「調伏」的な要素が重要になって来る可能性もあります。
(この世界が物理的であるがゆえに?)
例えば、隠れていたネガティブを浮き彫りにさせて 真理にて説得、調えるみたいな?。。

ある意味、以前からでもありますが~
これから、低級な方々(霊的な存在)が蔓延ることにより、あちこちで誤作動が生じる様を目にするかもしれません。
人や物など、あらゆるところで慎重な対応が求められるでしょう。
また、御心と共にある方(神の一部であることを知っている方)が、
「真理に根差していれば、魂まで切られることはない・・」
ことを実感出来る学びの機会ともなるでしょう。

因みに、低級な?霊の方々は、平気で嘘をつく為に~
「審神者(サニワ)」という名称も よく耳にしますが、
私が聞いた話ですと 降ろした神様やら霊やらを「審神者」を出来る程のスーパー霊能者が霊能で視て判断するといった単純作業でもないようです。
一人で視る云々は、シチュエーションにもよるかもしれませんが、というか、そもそも「審神者」の定義が難しいのですが、どうしたっても、その霊の動機や言動の辻褄云々~心理的分析や時代考証など、総合的な審査が必要となるようです。。
簡単な例えで申しますと~
自称平安時代の霊の方が、
「麿は、双眼鏡で見たのでおじゃるよ・・」
って、双眼鏡なんて無かったろーっ!
みたいな?(笑)
また、麿などの人(称)代名詞や言い回しも 時代により微妙に異なったりするようです。


あっ、
目的重視でしたので、お寺さんの写真を撮影するのを忘れておりました~
以下は、帰り際の写真ですけど~(^^;





爪切り地蔵さんの前を通る度に、
「ホンマかいな~」
って、呟いてしまいます。。m(__)m







謙虚さは、重要です。
謙虚と言っても ペコペコとすることではありません。
謙虚さとは、謙虚な心の姿勢ということです。
謙虚さは、冷静さでもあり理性的でもあります。
謙虚さは、自身(魂)の個性とを併せ持つ 天の御国に入る為のパスポートでもあります。

この世界の殆どのトラブルは、他を軽んじていることが原因となっていると思われます。
つまり、謙虚さが欠如している状態です。
私達が、他者を「あの人は、〇〇・・」という時、大抵、その相手を低く見ている心があります。
現在では、まるで、誰もが他を軽んじているかのように思えてしまう程です。
とはいえ、私も 他者を軽んじ 攻撃的である方を軽蔑しますが~(笑)

「俺は謙虚さなんてゴメンだ!
地獄へ行くんだ!」
と、自暴自棄となり、何かの影響も手伝って そう おっしゃる方もおられるかもしれません~
しかし、残念ながら私達が考える地獄という場所は存在しないという噂です。
地獄を見る的な学びはあるのでしょうけれど。。

全ては、神の懐の内にあります。
私達は、誰もが放蕩息子~
沢山の経験を経て、やがては、父(神)のもとへ帰って行くだけなのです。
いずれにしても(それぞれの方のタイミングはありますが)、結局は、誰もが御心(真理)に触れることになる(触れなければならない)のです。


因みに、私は「断捨離」という言葉は、あまり好きではありません。
正しく「断捨離」の意味を解しておられます方々は別にして~
無責任さを感じてしまうからです。
ある意味、好き嫌い(打算云々)で簡単に切ることが出来てしまうということは、それこそ、謙虚さの欠如だと思います。
やたらに切ってしまわなくても 離れるものは自然と離れて行くと思われますし、想いを込めること、関係性を育む経験(学習)が出来ず無駄になってしまいます。
また、「断捨離、断捨離!」と鼻息を荒くして安易に切ってしまう振る舞いからは、いわゆる、負のカルマが生じるかもしれません。

「高ぶるものは低くされ・・」

そして、

「・・後に、悲しみ泣くようになる・・」

かもしれません。

それから、初めから「断捨離」的姿勢でおられますと、交流する相手にも それは伝わりますし、軽薄な感じとなり、結局は その方向へ向かってしまいます。
損ですね。。
(実際、損得ではありませんが~笑)

昔は、「ストーカー」なんて言葉はありませんでしたが、その言葉を宛がってしまった為に 自己暗示のように、そうなってしまった(悪質になってしまった)ケースもあるのではないでしょうか?。。
「断捨離」も これに似ているのかもしれません。


自然界は、想いを込める姿勢~利他の心~謙虚さのある存在の存続を保障するでしょう。

「神は、その懐にて あらゆる生命を養って下さいます。
私達には どれ程 与えて下さるでしょうか?」

私達は、謙虚さと自らの豊かさを持ってして、空(から)の籠をパンの屑で一杯にすることが出来ます(聖書の話を例えて)。

謙虚さは、神との共鳴~
神の想いの表れでもあります。

奇蹟は、自らが成すことが出来ます!
奇蹟は、神と私達との共同作業です♪


※これを書いている私が完璧であるとは申しません。
私自身も絶えず葛藤があり、学びの途にあります。