宇久島の火焚崎(ひだきざき)にある『家盛公上陸記念碑』。その昔平清盛の弟・家盛が上陸したと言われる場所に建っている。ずっとお墓とばかり思い込んでいたが、そうではないことを数年前に学んだ。もっとも、その伝承自体史実かどうかはわからない。

晴れた日には、東シナ海に沈む美しい夕陽がそこから見える。


理系人間だったことも大きく影響しているかも知れない。父は生粋の無宗教論者だった。


他の人たちの葬儀には律儀に全て参列していたけれどいや、むしろ多分それゆえに自分の時は宗教的なことは絶対に何もするな、墓にも入れなくて良いと常日頃から厳命していた。そんなことにかかずらうことなく、自分たちの日々の生活を充実させるようにと言っていた。


父が逝ったのは残暑の厳しい年。10月も後半に入っていたのに、温室だけでなく庭にもまだ沢山の花が咲いていた。父が好きだったビールを散々酌み交わした通夜の翌日、姪を含めた家族全員が見事な秋晴れの空の下四方に散り、ごめんねと謝りながら様々な花を切り集め、棺の中の父を色とりどりに囲んだ。花たちもきっと許してくれたと信じている。

蓋を閉じる前、義弟が何枚も写真を撮ってくれた。ただ残念なことにどれもこれも暗すぎて、後で妹に散々怒られていたのは何とも気の毒に思う。振り返ると、祖母の時も祖父の時も長男である父が撮影していた。父の最後の写真は自分が撮るべきだったと、それだけは今でも大きな心残りだ。


寺には知らせず、したがって読経も線香も(勿論戒名もお布施も!)一切なかった。

ほとんどが身内の、総勢10名をちょっと超えるくらいのささやかな見送りだったけれど、その分一人一人がゆっくりと、そしてしっかりと、父にお礼の言葉を伝え、お別れすることができたと思う。

後日葬儀屋さんに、「家族葬をお手伝いさせていただくのは初めてでした。依頼のお電話を受けた時には正直『ちゃんとお葬式らしくなるんだろうか?』と思いましたが、これまで自分が関わったうちで一番心のこもったものでした」と言われた。父に褒められたようでとても嬉しかった。


父方の叔母の一人は陶器を商う店に嫁いでいる。ある日叔父が「実は・・・」と言いながら僕の目の前に一つのカタログを置いた。「ずっと前のお元気だった頃から、お義兄さんに『骨壺は自分で選んでおきたいから、良さそうなのがあったら教えてくれ』とお願いされていたんです。忙しさにかまけてそのうちそのうちと思っていたら、急にこんなことになって・・・。ぜひ代わりに選んであげて」と促す。

あるページで目が止まった。綺麗な青地に桜の花が散りばめられている。島育ちで植物好きの父にはこれだろう。即決した。

数日後、叔母たちがその素敵な骨壺を贈ってくれた。妹として父を想う気持ちがいっばいに詰まっているそれを、とても重く、あたたかく感じた。


紆余曲折あってその後いわゆる『○○家の墓』が実家の近くに建てられ、祖父母の骨は早々に移したものの、父の骨壺は今も実家の居間に置いてある。これから先も墓に入れるつもりはない。終の住処として父が自分で選び愛した場所にずっといて、皆を見守ってもらうつもりだ。

そのうち墓から骨をちょっとずつこっそり失敬して、祖父母も父の隣に常時出張していてもらおうと考えている。


母は、起きたらおはようと、出かける時には行ってきますと、一日中何かしら骨壺に向かって話しかけている。僕も妹も、実家に帰った時はご同様だ。

父の唯一の孫でとても可愛がられていた姪などは、毎回わざわざ蓋をとって、直接「おじいちゃん、こんにちは~」と挨拶する。父はさぞかし喜んでいることだろう。供養と言えばこれ以上の供養はないように思う。


ひと回り小さなお揃いの骨壺を叔父に取り寄せてもらい、そのまま店の倉庫に預けてある。もう3年ほどになるだろうか。

父には申しわけないが、その出番が一日でも遅くなるよう、僕ら子供たちは全力で頑張らせてもらう。