昨日の第二言語習得の授業で印象に残っているのは、「今まで外国語等を教えてきた中で、どんな理論を使ってきたか」という質問の後、誰も理論を使ったことがないという場面であった。日本国内であれば、「英語が誰よりもできた人」が英語教師になり、「教えることに興味があるまたは教えるのが上手である人」はどちらかといえばマイノリティーかもしれない。そしてカナダであれば、中国語でもスペイン語でもフランス語でもなんでも、その外国語の教師になる人というのは、「母語がフランス語だから」または「母語がフランス語で英語も話せるから」という理由で外国語教師になる人(移民または二世)が多いだろう(という推測)。日本でも海外でも、外国語教師は忙しそうにしている印象があり、彼らが論文や理論系の堅苦しい文献を読む時間と意欲があるのか、いつも疑問に思っている。特に日本の場合、英語を教える以外にやるべきことがあまりにも多すぎて、自己研鑽に使える時間がかなり限られてくることを考えると、「理論や研究成果を全く知らない教師」はどちらかといえば多数はであり、彼らは責められるべきではない。一方研究者はどうかというと、現場の苦労を知らない人が多く(全員がそうとは言っていない)、すべては出世のためのクソどうでもいい、都合よくデータを集められそうな研究に取り組み、とにかく論文を書く。そして教育学的示唆は結局他人任せであり、「教師はこうするべきだ」という締めくくり(ほとんどはそうなってしまうが)で実践者に責任を「無責任に」押し付けている。もしかしたら、一方通行というよりは、実践者も研究者両者ともコミュニケーションを取れていないという言い方の方が正しいかもしれない。きっと実践者は実践者、研究者は研究者で得意なことがあり、どちらが優れているかという議論はそもそも成り立たない可能性もある。自分は研究者を目指しているが、教育に全く興味がなく(笑)「どうだおれの研究すごいだろ」みたいな態度を誰に対してもしないで済みそうな気がしているが、所属先の学部によっては実践教育に携わる可能性も無きにしもあらずである。ただ少なくとも、地位や名誉、金を求めて自分は研究者を志望していないので、謙虚な姿勢を保ちたいと思う。