なんとなく日記?
Amebaでブログを始めよう!

12年前を考える

なんとなくブログをはじめることに。


今日は1月17日。12年前、阪神・淡路大震災が起こった日だ。

あの日ははっきりと覚えている。

あの日、朝5時45分地震とともに起床。

いわゆるP波(カタカタカタ・・・と最初に微動するヤツ)で地震に気づき起きた。

自宅付近の震度は3。数字以上にかなり揺れたのを覚えている。

まず、住んでいる地域で大きく揺れたのだろうと思った。珍しいなと思いながら。


揺れている時、まずラジオをつけた。

TBS系のラジオ番組「榎さんのおはようさん」という番組だったろうか。。。

「地震みたいですね。赤坂TBSの震度計は1と出ています」と言っていたのを覚えている。

『へぇ~東京でも揺れてるんだ。大きな地震だな』と目を擦りながら、詳しい情報が発表されるのを待っていた。

最初の段階では「東海・北陸地方を震源とした地震」とのアナウンスがあったのを記憶している。

その後だろうか、テレビを見に居間まで降りていった。


そのころ、早くてもテレビは6時にならないと放送は開始されていなかった。

もちろんその日5時50分すぎも、テレビをつけてもカラーバーもしくは砂嵐の状態で、

どの局も放送を開始していない時間だったのだ。


NHKが放送開始するのを待った。灰色の画面から、ニュースに切り替わり地震速報が始まった。

どうも関西方面での地震らしい。震源は淡路島付近だった。

また、京都の震度は5。しかし震度の情報も伝わっていないものもあるらしく、

画面に山陰、山陽、四国、九州と各地の震度が順に数字が発表されていくようにテロップが書き込まていった。

そこには神戸の震度が無く、アナウンサーも「神戸の震度の情報が来ていない模様です」と言っていた記憶がある。

随分経った段階において「6」という数字が出た。「神戸の震度がでました。震度6です」と言っていただろうか。

この段階で、かなりな地震の雰囲気があった。しかし、それ以上の目だった情報も無く、

時刻は7時になりかけようとしていた。


ちょうど、15日の成人の日が日曜日で、月曜日は振替休日。いわゆる3連休明けの火曜日だった。

高校生だった私は、地震だろうがなんだろうが休みでない限りは学校にいかなければならないと思い、

なおさら地震のその日は交通も混乱するだろうからと思い、早めに着替え、家を出るのであった。

地震の情報は気になっていたため、念の為ラジオを持って。。。


最寄の私鉄電車は、距離も少ない為か通常ダイヤで動いていた。揺れはしたが震度3程度の地震のため

車内も「大きな地震だったな」のような話を友人としていた記憶がある。イヤホンでラジオを聞いていた。

私鉄の終着駅についた7時40分頃、余震があったらしく丁度聞いていた放送の中では、中継を行っていた

大阪放送局のアナウンサーが余震に驚き、落ち着きを無くした状態になった段階で東京に強制的に戻されていた

のを聞き、これは関西は非常事態に近いと感じたのであった。


JRの駅に到着すると、関西方面からの電車は全てストップしており、復旧も未定との張り紙がなされていた。

バスターミナルには電車が止まっている為、バスを待つ人が溢れていた。

通常、その駅から1駅だけ普通電車に乗るのだが、バスに乗るのも無理だろうと察し、いつ来るかわからない電車を待っていた。

それほど待たず、電車が来るとのアナウンス。しかし通常朝の通勤時間帯は少なくても8両や10両で来る電車が、

この日に限って2両編成だったのを覚えている。関西とは反対方向への電車の為、多くの人が2両しか無い電車に詰め込み

乗ったのを記憶している。


学校に着いた後も地震の影響が多々あった。生徒も遠距離になると、交通機関が止まるなどして来られない人もおり、

また教師自体も渋滞等で来られない人もいるくらいだった。今から考えると、あの日は休校にしてもよかったかも知れない。


授業中はラジオは聴かれない為、休み時間ごとに状況を聞くことにしていた。

休み時間に聞く、その状況は時間が経つにつれ酷く、高速道路が折れているような考えられない情報が

伝えられるようになり、あわせて死者、行方不明数も増えていった。

学校が終わるまでに死者数が600人を超えていた事を思い出す。


帰りはバスと私鉄を乗り継いで帰った。家に帰ると、テレビをつけた。どのチャンネルも地震のニュース。

民放はすべてのCMをカットしてニュースを放送していた。この頃には、全ての中継が神戸を映し出していた。

ラジオもほとんどの番組が中止されニュースや安否情報となっていたが、

民間FM放送局は通常の番組の中に地震情報と被災者を励ますような内容となっていた。


阪神高速が無残に倒れ、家やアパート、ビルが倒壊し、地震後に発生した火災によって消失する街。

これは現実なのか?という問いをかけたくなるような映像だった。この状態をテレビで見ているという状態が不思議だった。


1995年当時は、インターネットというものは無かったというか、あったかもしれないが普及までは至っていなかった。

通信はできてもパソコン通信(パソコンも高ければ、モデムも当時は高かった)くらい。

携帯電話も普及には程遠い、高嶺の花ではなかっただろうか。PHSもその後の登場。

ポケットベルが流行っており、休み時間になると女子高生が公衆電話に列をつくり、ダイヤルボタンを早撃ちしていた時代である。

あれから12年経つがあの日は忘れられない。

あらためて、あの日被災しお亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。