私がPL教師になった頃の青年時代のお話です。
ある方から相談を受けました。
お舅さんが、寝たきりになられておられて、植物人間に近い状態になっているとのことでした。
そのお世話を嫁であるその方は、されておられたのですが、体を拭くのも、下の世話をするのも嫌で嫌で仕方ないと言っておられました。
その方に対して、何もわからない私は、以前聞いたことのある話をしました。それは、人が生かされているということは、必要があるからであり、このような場合は、ご本人に対してではなく、「周りの人に対して何か教えられている」という意味で、生かされる必要があると話しました。
その方は、察しのよい方で、「私が、こんなに嫌々お世話をしていたのでは、そうですよね」とおっしゃられました。
その当時の私は、自分の中で確信があったわけではなかったのですが、「PLの教えからすればそうなる」と思い、一生懸命お話しました。
数日後、その方から連絡があり、あれから、様々なことが考えたとおっしゃるのです。このような状態になったのは、この数年で、嫁いできてからの舅は、とてもやさしかったこと。いろいろ気を遣ってくれたり、したこと。過去のことが思い出されてきたそうです。
この方の心の中で何かが変わり始めていました。
しばらく経つと、心をこめてお世話をしようと思いなおし、毎日、祈っては、頑張るという取り組みが始まりました。
そして、また、しばらく経ったとき、私の想像を大きく越えた言葉を耳にすることになりました。
「先生、私、最近、お舅さんがいとしくて仕方ないのです。意識もないお舅さんに申し訳なくて。お舅さんに寝ているときに何かあってはいけないので、近くに布団を敷いて寝ているんです」
「変わればかわるものだなぁ」と思いました。
そんな話をお聞きした数日後、お舅さんは、意識が戻ることなく、静かに、眠るが如くお亡くなりになられました。
ご臨終のとき、お舅さんの目に涙が一杯溜まっていたと聞きました。
よくわかりませんが、私には、添い寝までしてくれたお嫁さんに対しての感謝と感動の涙だったのではと思えました。
私もお葬式に参列いたしましたが、まだそのあたりは、土葬が続いており、座棺だったことを覚えています。
この一件は、私の指導というよりは、それを受けられたその方の反省する力によって導かれた体験でしたが、私は、このことをとおして、一つの確信を得た感じがしました。
やはり、この世の中に生かされている人は、神様の目からみれば、何か必要があってのことということ。
この世の中に不必要な人など一人もいないということだなぁと思いました。
たとえ、意識がなくても、その姿を通して、誰かに何かを教えることになっているなんて…。
神のなさる業の奥行きの深さの一端にふれた感じがしました。
あれから、30年。思っているのは、今、神によって生かされている以上、人世のためにお役に立つことを自分の与えられた神業の中で、最大限していくという方向性。
それが、神に対して、私に課せられたことだと思うわけです。
そのような意識に立つと、どんなことがあっても、自分で死を選ぶなどという発想には、ならないと思うのですが…。