Sさんというお姑さんのお話です。
あるとき、ため息をついているSさんがいました。いつもは、元気で弱音を吐くこともないSさんでしたので、気になりました。
「何かあったのですか? 」とお聞きすると「先生、聞いていただけますか? 」との返事でした。
よくお聞きすると、ご長男ご家族のことでした。
同じ町に住んでいるのですが、ここ数年、行き来がないというのです。
もう小学生になっているはずの孫の顔を見ることが出来ないのが辛いと言います。
まだ、息子さんは、ときどき、ひょこっと、一人で顔を出すことはあるのですが、お嫁さんとは、この数年会ったことがないということでした。
Sさんは、竹を割ったような性格の方で、悪気のない人なのですが、ときどき、「Sさんからグサっとくることを言われた」という人がいます。
ですから、想像としては、「なぜ、こんなことになったのか」は、分かるような気がしました。
案の定、Sさんに原因をお聞きしても「まったく、身に覚えがない」ということでした。
こちらから電話してもお嫁さんは、でないということで、Sさんとしては、お手上げ状態でした。
それで、一つの提案をしました。
それは、お嫁さんの今日の幸せを祈って暮らすことです。
今までは、祈るというと自分の幸せを祈っていましたが、それをやめ、お嫁さんの幸せをただただ宝生して祈り続けるということでした。
*宝生(ほうしょう)とは、願いや感謝、お詫びなどその時々の祈りを深くするために 行う任意のお賽銭のようなもの
しばらくすると、Sさんの顔色がよくなってきました。
持ち前の明るさも戻ってきました。
そして、また、しばらく経ちました。
ある日、Sさんが、教会に走ってきました。
「先生!!!、今、嫁さんが来たんです。もうびっくりして!! 」
腰が抜けるくらい驚いたそうです。
玄関で、人の気配がするので、出てみますと、お嫁さんが立っていたというのです。
緊迫した場面だったといいます。
その瞬間、ニコッとして「よく来たねぇ」という言葉が自然と出てきたそうです。
すると、お嫁さんが、「上がってもいいですか? 」といい、この数年間のことは、何も話さず、何もなかったかのように最近のことや孫のことなど話が出来たというのです。
そして、帰り際に、今度、孫たちを連れてくると言ったそうです。
とても、うれしそうで、晴れやかなお顔でした。
数日後、孫を連れてお嫁さんが来られました。
それ以来、しょっちゅうの行き来が復活しました。
今回のことで、ポイントだったのは、お嫁さんが来ないという問題に対して、それまでは、ただ、なぜ来ないんだろう、と悩んだり、不足に思ったりしているだけでした。しかし、自分にも至らないところがあったはずと思い直し、今できる精一杯のことをし始めたところにターニングポイントがあったと思います。
そして、そのときの今できることが、お嫁さんの幸せを祈り続けることでした。
祈りにも求める祈りと捧げる祈りがあります。
求める祈りとは、自分中心の心から「こうなってほしい」「ああしてほしい」と要求する祈りです。捧げる祈りとは、人や全体のためが中心で、人の幸せや全体のこと、そこに向けての自らの決意を祈るという祈りです。
このときのSさんの祈りは、まさに、捧げる祈りだったと思います。
その結果、神の恵みをいただけたのだなぁと思います。
どんな恵みかといいますと、お嫁さんが玄関に現れたとき、ニッコリとして、「よく来たねぇ」という言葉が出てきたことです。
もしも、この出来事の前に、夫婦喧嘩をしたとしたら、こんな心境で、こんな言葉はでなったでしょう。
また、お嫁さんの幸せを祈っていなかったら、このような心にはなれなかったでしょう。
やはり、タイミングという神の恵みをいただけたり、祈り続けることで、そのような心を神から授かったということだと思います。
しかし、忘れてはいけないことは、ここに至るまでのSさんの信仰生活という努力の積み重ねです。
確かに、意地っ張りで、人を傷つけたりという心ぐせはあるのですが、献身(みささげ)に取り組む信仰(してもしなくてもいいことで、したほうが人世のためになるということを率先してするという信仰)には、精一杯取り組んできていました。
*献身に取り組む信仰は、PL信仰の重要な柱の一つです。
その結果、捧げる心が知らず知らずのうちに培われていたと思います。
そして、この心が鍵になりました。
この心は、包容力につながります。どなたの人生にも、さまざまなことが起こってきます。中には、自分の意に添わないこともあるでしょう。しかし、それを前向きにありをありとしてそのまま受け止めていける心が、それは、包容力であり、許容力でもあります。
この心が足りないと、自分の中で受け止められず、困ってしまったり、悩んでしまったりして、一歩も前に進めなくなってしまいます。中には、ご自身の命を絶つことまで思ってしまう人も出てきます。
Sさんは、最初に私の話を聞かれたとき、「そうしてみよう」と思われました。これが、捧げる心を培ってこられたSさんの信仰生活の蓄積の効果でした。ここが、足りないと、「先生、そうは言っても…ですから、そんなこととてもできません」ということになったでしょう。自分の思いや考え、都合を横に置いて受け入れてみるということになりにくいのです。
これは、私のPL教師としての経験の中で感じることです。
昔の人は、「雨降って地固まる」という格言を残しましたが、そのことをよいことにしていけるかどうかは、その人次第です。一度しかない人生ですので、恨みや不足の残る人生ではなく、有り難かったという人生にしていきたいものです。
Sさんの笑顔にふれて、とてもうれしい気持ちになりました。