不合理という現実 | 大阪市淀川区のカウンセラー|不登校・ひきこもりの対策など心の問題なら「ますだせいじ心のサポーター事務所」

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「心づくり」という新しいジャンルを開発しています。そのような視点から、日頃の何気ない生活の一コマが人生のターニングポイントになっていることを思い、心づくりの大切さや人生について、「心づくり」のインストラクターとしての立場で書いています。

私の今までの人生の中で、最初に不合理と思えることに直面したのは、大学時代でした。


私は、法律の勉強がしたくて大学に入りましたので、その一環として、法律の弁論部に所属しました。


大学が遠かったせいもあり、始発電車に乗って登校し、最終電車で帰って来るという生活を一年間続けました。


一年生というものは、縦組織の中では、奴隷のようなもので、神様である四年生や先輩には、対抗できない状況がありました。


しかし、そんな慣習を私たち一年生は、よしとしていませんでした。


いずれ、我々の時代になれば改善したいと思っていました。


一年が経ち、私たちは、二年生になりました。


どんなクラブでもそうですが、まず、二年生が中心になって行うのは、新入生の勧誘でした。


私たちもそれぞれが頑張り、今までの歴史上最高の50名の新入生が入部しました。


これは、クラブとしては、とてもめでたいことではありましたが、しかし、そこに微妙な関係を作り出すことになりました。


四年生から二年生まで合わせても40数名しかいない中に、50名の新入生です。今までの伝統を覆すような状況でした。


すでに、四年生は、引退し、三年生が執行部を運営していました。しかし、新入生からみれば、直接勧誘してくれたのは、二年生ということで、力で抑え込もうとする三年生じゃなくて、我々についてこようとするようになっていました。


夏頃には、その関係は、色濃くなっていました。


しかし、私は、一年生の頃と生活が変わっていました。


一年生のときは、クラブ中心の生活でしたが、私には、目標がありました。


それは、大学時代に社会勉強をしたいというもので、卒業してからでは、すでに、プロということですから、社会勉強をする状況にはないという考え方でした。


それに対して、PLの先生から「それなら20歳になったら、学費と食費は、自分で働いて大学に行くように」と指導をいただいていましたので、その準備を二年生になりましたらしなければいけません。そうしますと、毎日、部室に顔を出すこともできなくなっていました。


そんな状況でしたので、この執行部と微妙な関係が、険悪な方向に進んでいることを知りませんでした。


あるとき、同級生たちから喫茶店に呼び出されました。


聞くと、いつ、激突してもおかしくないくらいのところまで来ているということでした。そのことの状況説明と、今後、どうすればいいのかということに対する話し合いでした。


そこで、確認しあえたのは、あと少しで、執行部は、我々の手に委ねられるとい現実でした。感情的には、いろいろなことがあったとしても、我慢しようということになりました。


それが、一番平和的な対応だったからです。


しかし、しばらくして、状況が変わったことを知らされました。


ある問題で、口論になったというのです。


執行部は、許せないということになり、全体総会を招集して総括を行うといいます。


日程も決まっていました。


私たちは、再度、我慢することを確認しあいました。


しかし、どんな局面になるかわかりません。それぞれが、念のため、辞表を胸にしていました。


階段型の大教室を借りていました。


そこに、四年生から一年生まで、約100名が集まりました。


問題となった経緯が執行部から説明があり、当事者の発言が始まりました。


執行部対二年生の戦いという図式は、如実でした。


激しい応酬が繰り返されました。


弁論部ということもあり、その内容は、激しさを増していきました。


そんな中で、執行部が、当事者に対して「除名!! 除名!!」と叫びました。


会則には、執行部に敵対的な行為をした場合、除名もありうるという項目があったそうです。


それに対して、2年生の当事者は、「やってられない!!」ということで、辞表を叩きつけて、その会場を出て行きました。


その後も、2年生が一人ひとり演壇に立ちやり取りが行われ、最後には、辞表を残して出て行くということになっていきました。


1年生からも、我々を擁護する意見も出ましたが、そうなると、なお執行部は、感情的になりました。


女性部員たちは、あちこちで、悲鳴が上がったり、泣いたりしていました。


私は、最後まで、辞表を叩きつける気持ちにはなりませんでした。


「こんなのは、おかしい」「ここまで、3年生とも苦楽を共にしてきたのに」「どうして立場が変わるとこんなことになってしまうのか」「みんな、真剣にクラブのことを思い、行動してきただけなのに」「2年生が一人もいなくなってこのクラブはどうするのか」「もっと、冷静に話し合ったほうがいい」…。


まったくの不合理を全身で感じていました。


最後に、私の発言の場が来ました。


もう、始まって何時間が経過したかわからないくらいの時間が過ぎていました。


私は、このような決定に納得がいかないということ、そして、このようなことは、クラブとして決してよいことにならないこと、なぜ、あれだけ仲がよかったのに、こんなことになってしまわないといけないのか、この結論にまったくナットクしていないのだから、辞表は出さないことなどを話しました。


後日、執行部と話しました。


執行部も、私に、残ってほしいと言いました。


私は、もしも、残るとしたら、2年生全員の除名を撤回することが条件と言いました。


しかし、それは、できないといいます。


それなら、私も除名にしてほしいということで、結論が出ました。


これが、我々のクラブ始まって以来の政変劇の一部始終でした。


この年の夏は、ポッカリと心の中に大きな穴があいた状態でした。


この不合理と思えることにナットクがいなず、自問自答する日々でした。


私の結論は、お互いに一理ある戦いだったと思います。


しかし、心の奥底を見ると、執行部の人たちは、二年生が、一年生から慕われることへの嫉妬だったと思いますし、二年生は、執行部の苦労を理解しようとしなかったことだったと思います。


お互い若かったといえばそれまでですが、この時のことで、私は、「正しいから通る」ということじゃないんだということを知りました。


たとえ、正しくとも、強情張り、意地を張ると、よりよい方向に進んでいかなくなるということを学びました。


あれから、30数年が立ちました。


しかし、この教訓は、私の人生において、物を考える新しい尺度になったことは確かです。「正しい」ということと「恵まれる」ということは、必ずしもイコールではないということを。