島原の歴史 事前調査編 | 自転車とか歴史とか

自転車とか歴史とか

熊本在住

文章力皆無なので備忘録的意味合いが強い。
地元の図書館とwikiや野良サイトで調べてるだけなので間違いが多いと思われる。
想像・妄想で書いてることも多いので話半分程度に読んでほしい。

邪神ちゃん紹介と史跡・歴史編で分割
の続き
 
 
古代から江戸時代辺りのザックリとした歴史

・神話の時代には高来と呼ばれていた

・中世・戦国時代は有馬氏が島原一円を支配したまま江戸時代初期まで生き残り、

 幕府に迫害されるキリシタンを匿ったりしていた

・有馬氏が島原から日向に移り、代わりに松倉氏が藩主になると

 重税と農民・キリシタンへの拷問処刑により天草島原の乱が発生

・島原の人間の殆どが死んで復興に多大な時間がかかった

・雲仙岳の大噴火は江戸時代と平成に起こっており多大な犠牲者が出た

 

 

 

南島原市に焦点を当てているのでの東側・南側がメインになっている

 

 

〇古代

 

古代の島原は高来(たかき)郡高来縣と呼ばれていた(中心地は諫早?)ようで

九州の古代史を語る上で欠かせない存在でヤマトタケルのパパ、景行天皇の九州巡幸の際の記述がある

 

日本書紀には高来郡のエピソードはないが肥前国風土記に、

長渚濱(長洲浜)を訪れた景行天皇(第12代)が対岸の雲仙岳をご覧になり、“あの山は島か半島か?私は知りたい。”

と仰せになり、臣下を派遣して確認させたところ、山から雲仙岳の神(高来津座)が下りて来て出迎えた。

とあり、ここから高来という地名が生まれたそうだ。

 

↑の臣下と同一人物かは分からないが景行天皇は神代直という人物を島原に派遣したともされる。

後の時代にも神代氏は存在し、神代神社などがある。

 

また日本書紀等が編纂された時期である701年に雲仙の上峰に温泉山満明寺が創建された。

この温泉は「うんぜん」と読み古くは雲仙ではなく温泉と書いていたらしい。

正式に雲仙岳に改名されたのは1900年頃の話のようだ。

 

雲仙岳の頂上付近には温泉(うんぜん)神社があるので雲仙の地獄めぐりをする際は足を運ぼう

 

 

因みに雲仙岳とは、沢山の岳の総称を指す

「雲仙火山」と同義で、最高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成される。

 

 

 

 

〇鎌倉~南北朝時代

 

鎌倉から江戸時代初期にかけては有馬氏に焦点を当てて話を進める

 

1213-1219年頃、藤原経澄(後の有馬氏)により日野江城を築城

 

 

1353年 当時菊池氏と関係の深かった有馬澄世により、肥後の名僧 大智禅師を招く

 

大智禅師は

島原北部に本覚寺

島原南部に水月山円通寺

を建て、晩年を円通寺で過ごした。

 

円通寺での大智禅師は「日本昔ばなし」にもなっている

 

あらすじは↓から

 

この中で出てくる猿の沢山いた岩戸山というのは島原の南端近くの加津佐(かづさ)町に今も残っている。

 

山の中には「さるの墓」もあるようだ

 

 

因みに地図の右の方にある「大智禅師堂」が水月山円通寺のあった場所となる。

 

後の戦乱等で荒廃したが、岩戸山の登り口の場所に「普陀山巖吼寺」として再興している。

 

>【由緒】巖吼寺は前名を円通寺と称し、正平8年(1353)、時の領主・有馬佐衛門佐澄世公が大智禅師の崇高なる徳に帰依し、肥後広福寺より禅師を招請して一宇を建立し、その開山となる。当時は禅師の教化篤く、常住の僧300人におよび、七堂伽藍を備え、寺運は隆盛を極めていたが、天正7年(1579)、寛永14年(1637)、島原の乱の暴徒の兵に遭い、一時荒廃した。慶安5年(1652)雲山愚白和尚が加州より来て大智入定名蹟の廃頽を嘆き、智公の偉業を興さんとして円通寺再建を発願し、時の領主・高力高長の許を得て、寺号を普陀山巖吼庵と改称して復興し、今日に至っている。往古より観音霊場(郡内三十三観音霊場の第20番札所)にして、人々の信仰が跡を絶たない。

 

 

 

 

 

岩戸山には穴観音など重要な史跡も数多くあるようだ。

 

 

 

 

 

 

〇室町時代~戦国時代~江戸初期

 

 

鎌倉時代までは島原南部の一地方領主でしかなかった有馬氏だが次第に勢力を広げ

 

▽有馬晴純

有馬晴純の時には島原半島一帯を治めるまでに勢力を拡大した。

1496年には日野江城の支城として原城を築城した。

 

1550年にはポルトガル船が入港するようになり更に発展する。

 

口之津には南蛮船来航の地の石碑もある。

>「この地方において志岐、口之津を除けば安全にして四方の風を避ける便利な港は他にない。口之津は良港である。なぜなら、船を随意に碇泊することが出来るからだ。」(リストホーテン“水路記集”)

 

発展する一方で晴純はキリスト教を受け入ず弾圧する。

有馬氏といえばキリシタンのイメージが強いがこの頃はまだキリシタンではなかったことが分かる。

 

 

▽有馬義貞

次代の有馬義貞は貿易のためにキリスト教を推奨した。

ここからキリシタン有馬氏へ切り替わっていくようだ。

 

 

▽有馬義純

次代の有馬義純は21歳で早世

 

 

▽有馬晴信

早世した義純の弟、有馬晴信が5歳で当主となる

この有馬晴信はキリシタン大名であり激動の戦国時代を生きた人物でもある。

とりあえず有馬氏と言えば有馬晴信をチェックしとけばOK


有馬晴信は龍造寺氏と対立し攻め込まれる島津氏と協力し沖田畷の戦い龍造寺隆信を討った。

豊臣秀吉の九州平定の際は島津から離れ、そのまま所領を安堵されている。

この辺の九州三国志の話は非常に面白いが島原の話から大幅に逸脱してしまうので割愛。


文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では第一軍として小西行長らと共に戦い、

慶長の役終結まで何年も朝鮮に駐在していた。

 

関ヶ原合戦でも最終的には東軍として宇土城攻めをし所領を安堵された。

激動の時代の中でかなり上手く立ち回って領地替えもなく生き延びた優秀な存在と言えるだろう。

 

彼は熱心なキリシタンであり大友宗麟大村純忠とも親交があり

彼らと共に天正遣欧少年使節という4名の使節をローマに派遣。

使節はローマで勉強し、グーテンベルク印刷機を持ち帰るなどの功績も上げている。

 

島原のキリスト教施設が建てられたのもこの時期で、

使節の4人の少年は有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨ(神学校・小学校みたいなもの?)

で教育を受けた者から選ばれている。

 

↓のような逸話が残っている通り(?)、島原はキリシタンが集まる土地に変貌していたようだ

>・熱心なキリシタンであった為、秀吉・家康によってキリスト教が禁止・処罰されるようになっても領内に多数のキリシタンを匿った

>・ 信仰に熱心なあまり、破壊した寺社の資材でキリスト教育施設を領内に作らせるなどの強引な一面を窺わせる逸話も残っている

 

 

 

そんな中、岡本大八事件が起こり、

有馬晴信は死刑となってしまう。

 

岡本大八事件は有馬晴信がキリシタンであることは関係していなかったが、

 

この事件により幕府のキリシタンへの疑念が生まれ、

 

その後起こった平山常陳事件により幕府のキリスト教不信が決定的なものとなり

キリスト禁教令を出すに至る(平山常陳事件は島原と関係ないので割愛)。

 

 

 

▽有馬直純

有馬晴信は死刑となったが、

子の有馬直純は徳川家康の側近として仕えていたこともあり、そのまま所領を継承した。

 

直純は当初はキリスト教徒であったが幕府の禁教令に従い改宗し、キリスト教を弾圧した。
親族である8歳と6歳の異母弟ですら殺害する徹底ぷりであったが、

弾圧に疲れ移封を申し出て島原の地を去り日向延岡藩主となる。

ここで有馬氏の治世は終わり、2年の天領を経て松倉重政が藩主となる。

 

 

 

 

〇江戸初期~島原の乱

 

松倉重政とんでもない重税を課し凶作でも徴税を緩めず、

キリシタンや年貢を納められない農民を拷問・処刑していった。

重税の理由の1つに島原城の築城があり、領地に不相応な巨大な城を築城したとされる。

 

キリスト教弾圧のためにルソン島攻略をしようと更に重税をかけている所で急死。

 

子の松倉勝家人頭税や住宅税を追加するなど父を凌ぐ重税を課し、

とうとう天草島原の乱が引き起こされることになる。

 

 

〇天草・島原の乱

一揆軍は島原と天草の間にある湯島で談合し、天草四郎を総大将とすることを決めた。


天草の進軍状況については↓の「天草・島原の乱における本渡と富岡城での戦い」参照

なお、当時天草を治めていた寺沢堅高もキリシタン弾圧を厳しく行っていた背景がある。

 

因みに2021年は天草四郎生誕400年とされるらしい

 

 

 

 

島原での一揆軍は、南部の農民と取り込み北上。

松倉勝家は島原城に籠城し、一揆軍はこれを攻めるが落としきれず。

 

幕府軍の動きを知り後退し天草の一揆軍と合流し原城に立て籠る

 

より画像拝借

 

因みにこの原城の高台は約9万年前の阿蘇山噴火の火砕流の堆積物らしい

 

 

 

幕府軍により原城は包囲される。

要害の地であったようで、総攻撃をするも成功せず、幕府軍は兵糧攻めに切り替え

最終的に島原城は落城。
籠城した老若男女37,000人は全員が死亡したとされる。

 


後は高力忠房が藩主となり荒廃した島原藩の復興に尽力した。
松倉氏による重税・拷問・弾圧と島原の乱により元からいた住人の殆どが亡くなったため、

現在の島原の住人の大半は乱後の移住者(強制移住が多かったようだ)の子孫らしい。
凄い話だ。

 

 

 

▽城の遷移ざっくりまとめ

1213-1219年頃 藤原経澄(後の有馬氏)により日野江城 築城
1496年       有馬晴純により日野江城の支城として原城 築城
1616年       有馬氏が移封後、松倉重政が日野江城に入城
1618年       松倉重政により島原城 築城開始 1624年完成 合わせて日野江城・原城は廃城
1637-1638年    島原の乱  後に原城は破却される

 

 

 

 

 

 

 

〇江戸時代中期


もう1つ酷い話があって
1791年の年末頃から雲仙普賢岳が半年にわたり噴火・地震を繰り返し

溶岩流や噴石・火山ガスで周辺の集落が被害を受け、

 

1792年5月に大きな地震が2度起こり眉山の山体が崩壊し大量の土砂が有明海に雪崩込み、10mの巨大津波が肥後の天草や長洲を襲った。
津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている。

 

島原大変肥後迷惑というコミカルチックな名前がついてるが非常に凄惨な事件だったようだ。

 

その時に出来た島が九十九島といい 現在も島原港前に小島群が浮かんでいる。

 

 

 

 

雲仙は平成にも噴火しておりかなりの被害を出している(平成大噴火)が

そこについては現地で再度勉強してから記事にしようと思う

 

 

 

 

 


ということで原城を中心とした南島原の歴史 事前学習をまとめた。

 

 

 

 

 

更にザックリまとめると

・神話の時代には高来と呼ばれていた

・中世・戦国時代は有馬氏が島原一円を支配したまま江戸時代初期まで生き残り、

 幕府に迫害されるキリシタンを匿ったりしていた

・有馬氏が島原から日向に移り、代わりに松倉氏が藩主になると

 重税と農民・キリシタンへの拷問処刑により天草島原の乱が発生

・島原の人間の殆どが死んで復興に多大な時間がかかった

・雲仙岳の大噴火は江戸時代と平成に起こっており多大な犠牲者が出た

こんな感じだろうか

 

 

 
メインの流れはなんとなく把握したので
後は現地の史跡や資料館を調べて回って枝葉の知識を付けていく。
 
 
ふるさと納税が3月末なので1~2月には島原ライドをして記事をまとめたいと思う。
 
現時点で考えているモデルコース
多比良港発
 
 
 
まあ俺の記事の影響力なんて限りなくゼロに等しいんだけど1人でも寄付してくれて
南島原市への邪神ちゃん誘致に繋がればいいな~

 

 

 

 

 

ということで

邪神ちゃんドロップキック南島原編のためにふるさと納税よろしくお願いします!

 

 

 

おわり