柳川からは「東に適当に走っとけば大きな道に出るだろ」と安易な考えで無計画に進む
途中立ち止まってスマホのマップを見ると
ちょうど近くに蒲池氏の支城跡があったのでぶらりと立ち寄る
○宮園城
たぶんこの辺

敷地内はお寺になっていた


柳川城と同じく水路をうまく利用した城だったようだ

ここから更に東に進み
○面の坂へ

(ブレブレだった)
ここは立花宗茂と関係のある場所
ザックリした流れ↓
関が原の戦いの後、改易された宗茂らは加藤清正の計らいで高瀬・長洲町付近で生活していた。
困窮していた宗茂らのために柳川領に住む樺島彦左衛門・七郎兵衛忠重は密かに食糧等を運んでいたが
捕まってしまいこの面の坂にある処刑場で処刑され、家は断絶された。
今でも薄暗く不気味な感じだが以前はもっと不気味な場所だったらしい
調べてもどの辺に処刑場があったのか分からなかったので現地のご老人に聞いたがよく分からなかった 残念
ちなみに後で調べて分かったことだが彼らの墓石は松延の大祥寺にあるらしい
道沿いに南下するとポツンと看板がある
○松風の関

古くよりこの辺りには肥後と筑後の国境となる関があったらしい。
「関所より南なので南関という地名になった」とか
「松風の関が北の関所で南にもう1つあった関所があった場所を南関と呼んだ」
とかいう話をどっかで読んだ気がするが記憶が曖昧
おそらくだが面の坂で処刑された2人はこの周辺で捕まったのではなかろうか
(時代により国境が動いているので正確な場所は不明)
さて、ここより南関なのだが
平安時代の頃には既に肥後の玄関口であったらしい
google mapで見ると熊本に入るには山越えが必要になっているのが分かる

その中で南関は比較的平地が多いようで

豊前街道もここを通っている

少し横道に入り豊前街道のルートを見に行く
○湯谷柳川領境界石

解説

道路の反対にある折れた境界石

若干不安になりながら豊前街道を抜け

○正勝寺 (西南の役 本営跡) を抜け

○豊前街道 南関御茶屋跡 へ


こういったお茶屋敷などの施設は各地にあったが
明治の頃に学校などが建てられて殆どがなくなってしまったらしい
このお茶屋敷は個人の手に渡ったため無事だったそうだ
お茶屋敷の横手には
○鷹ノ原城(南関城)跡

解説

加藤正次による築城
関ヶ原以前は以前からあった大津山城にいたようだ
肥前名護屋城に匹敵する縄張りとか書かれてるけどそこまでは大きくないはず
○官軍墓地跡 もあるらしい

○北原白秋 碑 (多分)

南関は北原白秋の母の故郷とかなんとか
ここから豊前街道に沿って進み
○南ノ関宿溝口跡

○追分石

○十里木跡

すこし脇道にそれて
○小原天満宮

睨まれてる気がしてビクッとしたが子供を抱いてるのかな?


おそらくだがここは大友家臣、小原鑑元に関係のある場所
この地を治めていた大津山氏は大友との戦いに負け領地を奪われ代わりに小原鑑元が来た
最初はこの小原天満宮の裏山に城を築いていたようだが結局大津山城に入ったようだ
大友の家臣には大友氏が豊後に来る以前からいた家臣(他紋衆)と大友氏と一緒に豊後に来た家臣(同紋衆)がおり
大友宗麟は同紋衆を重用し他紋衆を蔑ろにしたため小原鑑元をはじめとする他紋衆が反乱を起こした
大友氏の首都の府内でも反乱が起こり混乱が続いたようだ
結局反乱は鎮圧され、小原氏も討たれその際に大津山氏が大津山城主に返り咲いたらしい
さて、また豊前街道に戻って
○肥猪

山鹿と南関の間の間宿として栄えた場所らしい
この辺から日が沈みそうになったのでダッシュで帰る
ここから入り

ここに出る

○六本松

○白坂

と出て以前来た豊前街道に合流できた
時間があれば神尾城など見たかったが日暮れ前だったので今回は諦めて帰宅
毎度のことながらアホみたく長くなったが一応書ききれた あーよかったよかった