昨日、病院に入った瞬間に、「あー、終わりだー」と思いました。
と同時に、
「いや、、、、終わりではない。始まりだ」
と思い直しました。
そして、採血室の待ち時間20数分の間に、その時の感覚を書き殴りました。
すごい勢いで書いたので、自分の目線が、家族へ行ったり、看護師になったり、陰性判定を待つ自分になったりしています・・・。
判定後、何か、大きな事がないと、すっきりしそうにないという気持ちから、お葬式の話にまでなってます。
まるで心拍が止まるのを待っているようだ。
死を待つというのは、おかしな表現だが、既にこの時までに家族の心は悲しみは通りこし疲労と、緊張でいっぱいで、これ以上このままでいると、ダメになるかもしれない所まできている。
人が死ぬとき、身体がむくみ、おしっこが出なくなり、亡くなる寸前には、一瞬心拍数が上がる。
その後、早くて数時間、長くても、1日ほどで、今度は、急激に心拍が落ちる。
150→100→80→70→60→40→30・・・・・
早くなっていた心拍が落ちてくると、一見楽になったように見えるが、最期の頑張りから疲れ果てた心臓がその鼓動を止めていく。
採血結果を待つだけの今、私は、心臓が止まり、医師が死亡確認するまでの間の様な気持ちだ。
ベッドサイドのモニターは、直線を示していて、心臓が止まったのはわかる。
けれど、それは機械がそう言っているだけで、本当はまだ生きているかもしれない。
何か奇跡が起きて、鼓動が再開するかもしれないという期待を持ちつつ、頭の中は、次の行事(葬式)の準備を始めている。
医師が、瞳孔の対光反射、聴診器で心拍停止と、呼吸停止を確認。
「●時●分ご臨終です。」
その言葉を聞くことはわかっているのに、その合図で悲しみが再度沸き起こる。
けれど、その悲しみの絶頂は、たいてい数分から数十分で終わり、次にしなくてはならない事へと気持ちが切り替わる。
看護師が死後の処置を始めると、家族は帰宅の準備をはじめないといけない。
さっきまで生きていた故人が使用していた、まだ、温かさを感じる日常生活用品をまとめ(亡くなる前からまとめている人もいるが)、
この時点では、皆、次へ向けて必死だ。
葬式というセレモニーは、人の悲しみで潰れそうなココロを救うためにあるのかもしれないと思う事がある。
夜、寝ずに故人に付き添い、たくさんの弔問客をもてなし、死後数時間で考えられないほどたくさんの事をこなさないといけない。
人は、そこに没頭することで、辛さからのがれる。
葬式が終わった頃にはくたくたで、死を待つ?待っていた?頃の様な緊張感はもはやなく、後は、長い時間と共に悲しみは癒えていく。
新しい生活が始まる。
妊娠判定マイナスを聞く、カウントダウンが始まっている。
もし、これが、最後の治療だったらどうなんだろう。
私は、その時も、こう思いたい。
終わりではない。始まりだ。
と。