日本人メジャー投手のパイオニア、野茂英雄の軌跡−④ | スポーツを語ろう-ZE!!

日本人メジャー投手のパイオニア、野茂英雄の軌跡−④

(前回より続く)
当時の成城工監督が最終的には野茂の変則的な投法に理解を示してプロからの打診を全て断ったことで野茂は中途半端な形でのプロ入りを強いられずにすんだ。野茂の両親もプロに行くにはまだ精神面が未熟という理由からこの段階でのプロ入りには反対していたと聞く。野茂自身もノーヒット・ノーランなどの記録こそあれ中央球界での実績がないことからこの段階での周囲のプロ入り反対にはおそらく納得していたことだろう。
ただ、近大付のセレクションに落ちたことには表には出てないにしろ或いは心の中で何らかの葛藤があったことも考えられる。野茂のことだからそう引きずってはいないとは思うが、巨人入りを熱望していながら一度は振られた清原和博や元木大介のように周りにはばかることなく悲しみの感情をさらけ出す者がいることを考えればこういう現実をみたときにショックを感じて落ち込んでしまう者は多々いるに違いない。だが野茂のケースのように、ときとして一見マイナスに見えるようなそんな出来事が結果として指導サイドからの理解に恵まれたばかりでなく主力選手として飛躍的成長を遂げるベースとなって後々多大な影響を与える原動力となりうるなどメリットとして働くこともあるということだ。人生は筋書きのないドラマだとはよく言われるが、球拾いからスタートした松坂大輔や、ベンチ入りは果たしながらもはじめのうちは打たれ続けて辛酸を舐め続けた桑田真澄のように名門校に行くことで力を倍増させる者がいる一方で野茂のように無名校で主力として3年間濃密な選手生活を送ることで基盤をしっかりさせる者もいる。リトルリーグからスター候補生としての道を歩ん
でいた2人に対し、野茂の場合は何もないところから右肩上がりの直線を描くような成長を遂げる男の役を演じる運命だったのかもしれない。
野茂のこうした経験から人にはそれぞれ大なり小なり違った運命形態があること、そしてマイナスからプラスが生じるケースもあるということが感じ取れる。
かくして野茂は同校卒業後新日鐵堺に入社した。かつて釜石から山田久志(阪急)を送り出すなどこちらは名門だったが、ここでも悲劇が待っていた。鉄鋼不況で野球部が廃部の危機に晒されたのだ。
その“負けたら廃部”のかかった試合で野茂は本当に健闘したらしいが惜敗してしまう。その後の野茂をはじめとする部員の涙ぐましいまでの取り組みようで廃部の噂は消し飛んでしまったらしい。しかしこの廃部騒動からただ漠然と取り組んでいた野茂の野球への姿勢に変化が起こる。そしてそれは都市対抗野球やオリンピックで輝かしい実績を残す力となることでプロ入りに繋がった。
この頃になるともう野茂の評価は揺るぎないものとなっており、それが先に記した“ドラフト史上初の8球団1位指名”という人気ぶりとなって表れた。度重なるドラフト制度の細かいレベルでの変遷も影響したとはいえ野茂以後も小池秀郎以外出ていないのだから大した記録である。
近鉄入りした野茂は、破格の契約金などから最初はチームメイトから疎まれていた。毒舌で鳴らした加藤哲郎などは年俸に不満があることについて「野茂に金を使いすぎる」とまでいう始末。しかし持ち前の純朴な性格がチームに受け入れられるのに時間はかからなかった。また近鉄の雰囲気が野球以外では比較的穏やかだったのも野茂には幸運だったのかもしれない。
実力面でもシーズン当初は苦闘を強いられた。更にあまりにも過大な注目の中でその分期待も大きかったこともあり、「やはりあの投げ方では…」などといった不安の声も数多く聞かれた。
しかし野茂はもう迷わなかった。恐らく手応えは感じていたのだろう。本領発揮に4試合かかったものの、その4試合目となるオリックス戦での17奪三振のド派手な初勝利。
そしてそれを皮きりに、まさに怒涛といえる彼のある部分大逆襲にも似た快進撃が始まったのである…
(続く)