イチローの日本人最多安打記録達成からつくづく思うこと
ついに、山頂到達!!
それまで、偉大なる先人が見ていた頂での景色はそれはそれは素晴らしいものだったという。
先日、当ブログでも伝えた通りシアトル・マリナーズのイチローが公式戦通算3086本目の安打をマークして張本勲氏が保持していた3085本の記録を更新した。張本氏の安打がすべて国内で達成されたものであるのに対しイチローは日米通算であることや、また張本氏の達成が22年目、41歳での出来事に対しイチローは18年目、35歳の達成であることなどいろいろなエピソードがついて回るのだが、とにかくこのイチローがまたしても球史に新たな、そして彼以外の人間にはなかなかなし得ない痕跡を残したのである。
イチローと同年代のスラッガーにはニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜がいる。
松井もイチローも初めての甲子園ではともに力を発揮することができなかった。ところが一学年下の松井秀喜が石川・星陵高2年夏から練習試合や地区大会ではもちろん大舞台でもホームランを量産し始め、最後の夏には明徳義塾監督・馬渕史郎を震え上がらせてなんと、5打席とも四球で歩かされた末、その化け物並みの打力を買われて鳴り物入りでドラフト1位で巨人入りした。もちろん巨人入りしてからもその力を遺憾なく発揮してヤンキースのスカウトの目に止まったのは周知の通りだ。
ところがイチローの方は2度の甲子園はともに初戦敗退。
しかも3年次に愛知・愛工大名電高のエースとして91年に選抜出場したときは失礼ながら当時は特に野球のふるわなかった長野県代表のチームに2-3で敗れてしまっている。当時イチロー、いや、鈴木一朗の存在を知らなかった私のように長野代表・松商学園が勝ったこと以上に“名電の不甲斐ない敗北”の方に目がいったという人も少なくはなかったと思う。
幸いというか、そのイチローの名電を下した松商学園が実力派エースの上田佳範(日本ハム-中日)の快投で旋風を起こして決勝まで進んだのが救いだったが、一方でますますイチローの影が薄くなってしまった感が強かった。愛知県下、東海大会ではかなりの打棒を奮い、それがあったからこそプロのスカウトの目にもとまるのだが、甲子園では9打数でわずかに1安打、それも響いたのか当時は華奢というふうにしか見られなかった線の細い体型も影響してか、高校卒業後ドラフトで指名されたもののそれも4位指名と決して評価は高くなかった。
正直、私はこの時点までイチローの存在を知らなかった。ましてそのイチローがここまで大きな存在になることなどこのときは想像すらできなかった。他にもそういう人は多かったと思うが、果たしてイチロー自身もこの当時は手応えがなかったのだろう。オリックス・ブルーウェーブ(当時)での入団会見も先日テレビで流されていたが、今の手慣れたマスコミ対応とは似ても似つかないほど平凡で普通のコメントしか残していなかった。また、当時のイチローはマイクを向けても「苦手なので」といって避けていたというが、それを知っていただけに今と当時で相当の変化があったことを実感せざるを得ないのだ。
イチローのプロ第一歩はこんなところからスタートしたのである。この時点ではイチローは、まだまだ“鈴木一朗”である。今でこそ天才と呼ばれる“イチロー”であるが、もしかしたら、案外素材的にはそんじょそこらの有力高校生と変わらなかったのかもしれない。イチロー自身でもそのあたりまでは自分が築き上げてきた野球人生に決して納得はしていなかったのではないか。
果たしてプロ入りしてからもイチロー丸を襲う荒波はしばらく続いた。当時の土井監督が一年目にしてジュニア・オールスター(現フレッシュスター・ゲーム。二軍版オールスター。)でMVPをとるなどファームでは頭角を現し始めていたイチローの能力をあまり高く評価していなかったようだ。この頃になるとさすがに私もイチローの存在を知っていたが、それでもそのスマートさがゆえにかえって目立ちにくい当時の鈴木一朗ではビジュアル的に損をしていたのかもしれない。
その“鈴木一朗”という名のさなぎが仰木彬新監督の下で“イチロー”という名の成虫に進化してからというもの、イチローのバットが突如火を吹き出した。近鉄で安打製造機として知られた新井宏昌コーチとの出会いも大きかった。柔軟な打撃で渋いヒットを積み重ねた新井コーチだがイチローのバッティングに自分のバッティングと重なるものを見たのだろう。今のイチローは比較的オーソドックスな打撃フォームで打っているが、当時ブレイクした“振り子打法”はイチローの打撃スタイルと現役時代の新井コーチのフォームのいいところを合わせてさらに発展させたものだったのかもしれない。そしてその後の彼の活躍は語るまでもあるまい。
荒波続きの野球人生を乗り切って一気に光を見たイチロー。それは仰木彬との出会い、“イチロー”という登録名変更、新井宏昌との出会い、振り子打法の開発…そういったことが一遍に重なってイチローのプレーが日の目を見たのだが、それはあくまできっかけであるに過ぎまい。
イチローのこれまでの実績を支えてきたのは別にあると思う。
名電高時代にイチローとバッテリーを組んでいた捕手の話を雑誌で読んだことがあるが、それによればイチローは相当頑固なところがあるという。バッテリー間で頑固といったらどんな場面でその一面がでるかは見当がつくと思うので割愛する。そしてファッションなどに見られる彼のこだわり、WBCで表に出た意外ともいえるほどの情熱…
そう、こだわりといえばイチローはバットの型を変えるということを一切やっていないと聞いた。ほとんどの打者が1ミリ単位で少しずつ変えているのに対してイチローは一貫して同じモデルのものを使っているという。
それがいいか悪いか、またバットのモデルを変えるのがいいのか同じモデルのものを使い続けるのがいいのかはまた別の話でそれは好き好きの問題もあれば人に合う合わないとか、またはどのタイプが人に合うのかといった問題もある。ただ、新庄剛志が引退する原因の一つに使用グラブの疲弊があるが、新庄といいイチローといい道具一つに対するこだわりにこれだけの強さを持っていたこと。
そういった本人の意志の強さ。それこそが今日のイチローを生み出し、育てあげたのだろう。先に述べたように、イチローも実は決して順風満帆にここまでこれたわけではない。むしろ屈辱もあれば葛藤もいろいろあったはずだ。しかし心の根底にある芯の強さ…それを様々な経験経験の中で壁にぶち当たりながらも腐らず諦めず自分を大事にしながら、自分を信じながらさらに研ぎ澄ましていったことで、もしかしたら生まれつき恵まれていたのではないかもしれないであろう潜在能力を最大限に引き出して今があるのだと思う。
記録達成の瞬間がまた劇的だった。
タイ記録が満塁弾、新記録が張本氏の帰国を前にした次の日…WBCでのタイムリーもそうだがやはりイチローには本人もいう通り“持っている”ものがあるのかもしれない。時としてまるで役割が決まっていたかのように、ヒーローには劇的な場面でチャンスが回ってくる。そしてまた、それに応えるのがイチローだ。こういう場面、イチローはいい意味で図太くなれるようだ。「チャンスで自分に回ってくると痺れてなんともいえない感覚になる」なかなかなれるものではない。これは迫り来る壁にいかに真正面から向き合ってきたかの証しかもしれない。
それを繰り返すことで一つ、また一つ強くなっていったものなのだろう。
次の目標として話がでているのが四千本安打、そしてゆくゆくはピート・ローズ氏の持つ4256本安打の世界記録だ。
体調管理をしっかりしてきたとはいえ、年齢を重ね、胃潰瘍になるなど肉体的ダメージが顔を覗かせ始めたことを考えれば彼と言えども容易な記録とは思えない。
だが、こんな彼の言葉を聞いた。
「50歳まで現役でやりたい」
すべてはこの言葉にかかっていそうだ。もちろんまずこれが実現できなければ話にはなるまい。だがこれが可能になれば自然と安打数はついてくる。そうなれば夢の大台到達、そしてゆくゆくはエベレストの頂上でも経験できない壮大な頂からの遠望もあながち不可能ではないかもしれない。
イチローがこうした記録を意識した上でこのような言葉を吐露したのかはしらない。
だがいかにもイチローらしい言葉で自らの将来を語ってくれたものだと思う。
それにしても、やはりイチローはファッションから発想、考え方まですべてがお洒落な男だなと思った。ある意味野球の神様が作り上げた最高傑作かもしれない。
それまで、偉大なる先人が見ていた頂での景色はそれはそれは素晴らしいものだったという。
先日、当ブログでも伝えた通りシアトル・マリナーズのイチローが公式戦通算3086本目の安打をマークして張本勲氏が保持していた3085本の記録を更新した。張本氏の安打がすべて国内で達成されたものであるのに対しイチローは日米通算であることや、また張本氏の達成が22年目、41歳での出来事に対しイチローは18年目、35歳の達成であることなどいろいろなエピソードがついて回るのだが、とにかくこのイチローがまたしても球史に新たな、そして彼以外の人間にはなかなかなし得ない痕跡を残したのである。
イチローと同年代のスラッガーにはニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜がいる。
松井もイチローも初めての甲子園ではともに力を発揮することができなかった。ところが一学年下の松井秀喜が石川・星陵高2年夏から練習試合や地区大会ではもちろん大舞台でもホームランを量産し始め、最後の夏には明徳義塾監督・馬渕史郎を震え上がらせてなんと、5打席とも四球で歩かされた末、その化け物並みの打力を買われて鳴り物入りでドラフト1位で巨人入りした。もちろん巨人入りしてからもその力を遺憾なく発揮してヤンキースのスカウトの目に止まったのは周知の通りだ。
ところがイチローの方は2度の甲子園はともに初戦敗退。
しかも3年次に愛知・愛工大名電高のエースとして91年に選抜出場したときは失礼ながら当時は特に野球のふるわなかった長野県代表のチームに2-3で敗れてしまっている。当時イチロー、いや、鈴木一朗の存在を知らなかった私のように長野代表・松商学園が勝ったこと以上に“名電の不甲斐ない敗北”の方に目がいったという人も少なくはなかったと思う。
幸いというか、そのイチローの名電を下した松商学園が実力派エースの上田佳範(日本ハム-中日)の快投で旋風を起こして決勝まで進んだのが救いだったが、一方でますますイチローの影が薄くなってしまった感が強かった。愛知県下、東海大会ではかなりの打棒を奮い、それがあったからこそプロのスカウトの目にもとまるのだが、甲子園では9打数でわずかに1安打、それも響いたのか当時は華奢というふうにしか見られなかった線の細い体型も影響してか、高校卒業後ドラフトで指名されたもののそれも4位指名と決して評価は高くなかった。
正直、私はこの時点までイチローの存在を知らなかった。ましてそのイチローがここまで大きな存在になることなどこのときは想像すらできなかった。他にもそういう人は多かったと思うが、果たしてイチロー自身もこの当時は手応えがなかったのだろう。オリックス・ブルーウェーブ(当時)での入団会見も先日テレビで流されていたが、今の手慣れたマスコミ対応とは似ても似つかないほど平凡で普通のコメントしか残していなかった。また、当時のイチローはマイクを向けても「苦手なので」といって避けていたというが、それを知っていただけに今と当時で相当の変化があったことを実感せざるを得ないのだ。
イチローのプロ第一歩はこんなところからスタートしたのである。この時点ではイチローは、まだまだ“鈴木一朗”である。今でこそ天才と呼ばれる“イチロー”であるが、もしかしたら、案外素材的にはそんじょそこらの有力高校生と変わらなかったのかもしれない。イチロー自身でもそのあたりまでは自分が築き上げてきた野球人生に決して納得はしていなかったのではないか。
果たしてプロ入りしてからもイチロー丸を襲う荒波はしばらく続いた。当時の土井監督が一年目にしてジュニア・オールスター(現フレッシュスター・ゲーム。二軍版オールスター。)でMVPをとるなどファームでは頭角を現し始めていたイチローの能力をあまり高く評価していなかったようだ。この頃になるとさすがに私もイチローの存在を知っていたが、それでもそのスマートさがゆえにかえって目立ちにくい当時の鈴木一朗ではビジュアル的に損をしていたのかもしれない。
その“鈴木一朗”という名のさなぎが仰木彬新監督の下で“イチロー”という名の成虫に進化してからというもの、イチローのバットが突如火を吹き出した。近鉄で安打製造機として知られた新井宏昌コーチとの出会いも大きかった。柔軟な打撃で渋いヒットを積み重ねた新井コーチだがイチローのバッティングに自分のバッティングと重なるものを見たのだろう。今のイチローは比較的オーソドックスな打撃フォームで打っているが、当時ブレイクした“振り子打法”はイチローの打撃スタイルと現役時代の新井コーチのフォームのいいところを合わせてさらに発展させたものだったのかもしれない。そしてその後の彼の活躍は語るまでもあるまい。
荒波続きの野球人生を乗り切って一気に光を見たイチロー。それは仰木彬との出会い、“イチロー”という登録名変更、新井宏昌との出会い、振り子打法の開発…そういったことが一遍に重なってイチローのプレーが日の目を見たのだが、それはあくまできっかけであるに過ぎまい。
イチローのこれまでの実績を支えてきたのは別にあると思う。
名電高時代にイチローとバッテリーを組んでいた捕手の話を雑誌で読んだことがあるが、それによればイチローは相当頑固なところがあるという。バッテリー間で頑固といったらどんな場面でその一面がでるかは見当がつくと思うので割愛する。そしてファッションなどに見られる彼のこだわり、WBCで表に出た意外ともいえるほどの情熱…
そう、こだわりといえばイチローはバットの型を変えるということを一切やっていないと聞いた。ほとんどの打者が1ミリ単位で少しずつ変えているのに対してイチローは一貫して同じモデルのものを使っているという。
それがいいか悪いか、またバットのモデルを変えるのがいいのか同じモデルのものを使い続けるのがいいのかはまた別の話でそれは好き好きの問題もあれば人に合う合わないとか、またはどのタイプが人に合うのかといった問題もある。ただ、新庄剛志が引退する原因の一つに使用グラブの疲弊があるが、新庄といいイチローといい道具一つに対するこだわりにこれだけの強さを持っていたこと。
そういった本人の意志の強さ。それこそが今日のイチローを生み出し、育てあげたのだろう。先に述べたように、イチローも実は決して順風満帆にここまでこれたわけではない。むしろ屈辱もあれば葛藤もいろいろあったはずだ。しかし心の根底にある芯の強さ…それを様々な経験経験の中で壁にぶち当たりながらも腐らず諦めず自分を大事にしながら、自分を信じながらさらに研ぎ澄ましていったことで、もしかしたら生まれつき恵まれていたのではないかもしれないであろう潜在能力を最大限に引き出して今があるのだと思う。
記録達成の瞬間がまた劇的だった。
タイ記録が満塁弾、新記録が張本氏の帰国を前にした次の日…WBCでのタイムリーもそうだがやはりイチローには本人もいう通り“持っている”ものがあるのかもしれない。時としてまるで役割が決まっていたかのように、ヒーローには劇的な場面でチャンスが回ってくる。そしてまた、それに応えるのがイチローだ。こういう場面、イチローはいい意味で図太くなれるようだ。「チャンスで自分に回ってくると痺れてなんともいえない感覚になる」なかなかなれるものではない。これは迫り来る壁にいかに真正面から向き合ってきたかの証しかもしれない。
それを繰り返すことで一つ、また一つ強くなっていったものなのだろう。
次の目標として話がでているのが四千本安打、そしてゆくゆくはピート・ローズ氏の持つ4256本安打の世界記録だ。
体調管理をしっかりしてきたとはいえ、年齢を重ね、胃潰瘍になるなど肉体的ダメージが顔を覗かせ始めたことを考えれば彼と言えども容易な記録とは思えない。
だが、こんな彼の言葉を聞いた。
「50歳まで現役でやりたい」
すべてはこの言葉にかかっていそうだ。もちろんまずこれが実現できなければ話にはなるまい。だがこれが可能になれば自然と安打数はついてくる。そうなれば夢の大台到達、そしてゆくゆくはエベレストの頂上でも経験できない壮大な頂からの遠望もあながち不可能ではないかもしれない。
イチローがこうした記録を意識した上でこのような言葉を吐露したのかはしらない。
だがいかにもイチローらしい言葉で自らの将来を語ってくれたものだと思う。
それにしても、やはりイチローはファッションから発想、考え方まですべてがお洒落な男だなと思った。ある意味野球の神様が作り上げた最高傑作かもしれない。