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前回ヤロスラフ賢公のいわゆるキエフ大公国の全盛期の時代まで触れましたが今回からは分権的傾向の時代です。まずは今回触れる人物の家系図を載せときます。




ヤロスラフは1054年になくなり、キエフ大公位は長男のイジャスラフが継承、また、次男のスヴャトスラフはチェルニゴフの公位を与え、三男のフセヴォロドにはペレヤスラブリの公位を与えてキエフ大公国を事実上分割しました。1054年以降はこの3人による三頭政治によってルーシの地は支配されました。キエフ大公国の後半はこんな感じで諸公が群雄割拠していきます。


食事をするイジャスラフ1世


ドイツから来た大使と会談するスヴャトスラフ


イジャスラフと弟のフセヴォロドの侵攻してきたクマン人に対する対策に関する会話。


1068年に遊牧民のクマン人がキエフに侵攻、イジャスラフの祖父のウラジーミルと父のヤロスラフが築いた防衛線は破られ、首都は大混乱に陥りキエフの市民によってイジャスラフは追放されてしまいました。結局イジャスラフは翌年キエフ大公に復帰しますが1073年に弟のスヴャトスラフ、フセヴォロドと対立し、再び大公位をおわれてしまいました。ただしこの時も1076年に再び大公位に復帰します。まさに不死身のイジャスラフ( ;∀;)。

イジャスラフが1078年に亡くなると今度は彼の弟のフセヴォルドと甥のオレグが大公位を巡って争いました。結局この争いはフセヴォルドが勝利し、キエフ大公位につきチェルニゴフ、ペレヤスラヴェリ、キエフを統合することに成功。この時フセヴォルドの側で活躍したのが彼の息子のウラジーミル(・モノマフ)でした。以降ウラジーミルという名前の人も多いのでモノマフと呼びます。(ロシアとウクライナの現大統領もちょっと発音が違えどウラジミールなので)。

ウラジーミル・モノマフは母がコンスタンティノス9世モノマコスの娘だったためモノマフと呼ばれるようになり、父の死後すぐに大公位になったわけではなかったが遊牧民とよく戦い、1097年のリューベチ諸公会議でも主導的な役割をもたらしました(後述)。

1093年のフセヴォルドの死後、イジャスラフ1世の息子のスヴャトポルク2世が大公になりました(つまりフセヴォルドの甥)。このころキエフ大公の権威は次第に衰退し諸公が必ずしもキエフからの命令に従わなくなり、さらに諸公は割り当てられた土地との結びつきを強めたため中央からの統制を受けにくくなりました。そのため1097年に6人の諸公を集め、リューベチ諸公会議を開催した。この頃遊牧民の脅威が増大していたため、会議ではそれぞれが内紛をやめ諸公の世襲領地を約束し協力しあうことが確かめられました。しかしこれによって東スラブの分裂が決定的となってしまい、これが再び一つになるのは15世紀のイヴァン3世の時代でだいぶ後になってしまいます:(;゙゚'ω゚'):。

1113年にスヴャトポルク2世がなくなるとキエフの住民たちは蜂起を起こし、ウラジーミル・モノマフが大公位につくことをもとめました。モノマフは要請に応じて即位、また息子達を通じてルーシの4分の3を支配することに成功。1118年にはノヴゴロドの公をキエフに呼び、忠誠を誓わせることもできました。1016年以降ビザンツ帝国とも戦いドナウ川まで南下しまし、遊牧民とも効果的に戦い、ポロヴェツ族とは何度も戦ったことが彼の著作の「モノマフの教訓」に記されており、それによると83回も大きな出陣し、ポロヴェツ族と19回も講和を結んだといいます。


ウラジーミル2世モノマフ


モノマフの死後は息子のムスチスラフが後を継ぎ、1127から29年にかけてポロツク公国と戦い、1131年にリトアニアと戦いました。また遊牧民のクマン人とも1129年に戦ったが、ムスチスラフは1132年に死去し、これによりキエフ大公国が強力な統制があった時代は終わりました。


ムスチスラフ1世


今回分権的傾向とか言ってましたが結局ウラジーミル・モノマフてその息子のムスチスラフ1世という有能な人がいたために結局そこまで?分権的では無かったので次回からは本格的に分権時代に触れますm(_ _)m。次回からはロストフ・スーズダリ公国、ガーリィチ・ヴォルィーニ公国、ノヴゴロド公国といった著名な諸公国について投稿しますのでお楽しみに(๑╹ω╹๑ )。