昨年頃まで、滋賀県の 雄琴 という場所に残っていた屋上広告看板である…。

 

      

 

 

「トルコ?」 「滋賀?」 

はてさて、今の40歳以下の方ならお分かりにならないだろうが、こちらは現在の「ソープランド」の看板であって、昭和59年までは トルコ風呂 と呼ばれていた所以である。

 

※昭和50年代後半に日本へ留学していたトルコ人学生の抗議によって、ソープランドに改名される。

 

 

 

 

と言うことで、今回は関西圏と申しますか、とりわけ大阪を中心とした昭和50年以降の 性風俗産業 (以下=風俗と略す)の歴史を真面目にご紹介しようと思うのですが、不快に感じる方は以下を御覧にならないでください。

 

 

 

 

人間の三大欲は食欲、睡眠欲、そして性欲と言われていて、これらにまつわる産業は絶対に滅びることが無いらしいが、かつての大阪の風俗も幾多の変遷を経て今日に至っている。

 

 

       

 

さて、私が社会人として世に出た昭和50年代後半頃は、大阪の風俗の縮図はこうであった。

 

 

1. 高額な風俗

 

今は当地には1軒たりとも存在していない「ソープランド」は、かつては大阪のキタ(兎我野町あたり)とミナミ(千日前あたり)に集中していて、一時は 神戸福原 を抜く60店舗以上が存在していた。

 

もちろん高額であるがゆえ、完全個室で浴室も備えられていたものの、中々気軽に訪問することが出来きないのも本音であって、「いつかはクラウン…」のCMコピーに倣い、当時の若者の間では、「いつかはソープ…」とも揶揄されていた。

 

 

 

 

で、その面影を残す建物が今も残っていまして…

 

      

 

※googleより拝借

 

←が示すように、入口には植木が乱立していて、入店時には通行人からあまり顔が見えないように工夫されていた。

 

加えて、福原よりも総体的に安価であったため、それなりに盛業していたものの、平成2年に大阪鶴見緑地で開催される 花博 を前に、「大阪浄化作戦?」なるものが発令されたため、お上には逆らえないことから、全店廃業に追い込まれてしまった歴史がある。

 

 

 

ただ、今もミナミの一部店舗ではサービス内容を変更しつつも、当時の設備をそのまま使った店が数軒現存している。

 

      

 

※googleより拝借

 

 

 

 

2. 庶民的な風俗

 

昭和50年代頃の庶民的な風俗と言えば、キャバレーから派生した「ピンクキャバレー」= ピンサロ が最右翼であって、こちらは個室ではなくソファーなどで仕切られていて、浴室設備も無かったので、代わりに「おしぼり」でキレイキレイしていた。

 

      

 

大音量の曲がガンガン流されて照明も暗かったため、お相手の顔すら判別が難しいという難点があったのに加え、当時は止むに止まれぬ事情があって仕方なく従事する者が大半であった。

 

 

 

そのためか、お相手が恐ろしいくらい高齢であったり、はたまた「お化け屋敷」かと見紛う場面も多々あっようで…

 

      

 

目的すら達せず店を後にする者も多々あったらしい?

 

 

 

で、その隙間を突く形で登場したのが ファッションヘルス という業種であって、確か新宿の歌舞伎町が初号店じゃなかったかな?

 

前述の「ピンサロ」と比較して、簡易ながらも完全個室でシャワーもありましたが、1980年前半頃に登場した当初は「ファッションマッサージ」と称していたので、個室にはマッサージ機具が常備してあって、要は使うことは無かったんですが、名目上はマッサージ店という括りだったかと?

 

 

        

 

ただ、前述のピンサロと同じ価格帯である反面、お化け屋敷とは一線を画すほどお相手が若く、おまけに事前に顔写真でお相手を選べるというシステムが安心感を与えたことと、当時は風俗営業法に掛からなかったので、大阪を含めた全国で爆発的に増えた業種でもありました。

 

で、これは後に店舗形から派遣型へとシフトして行き、今でも大阪の風俗では中心的な業種として君臨している反面、これが現在にも繋がる業界従業員の若年齢化のはじまりでもあって、気軽に高給が貰えるという誘い水となったとも思うんです。

 

 

 

 

3. 安価な風俗

 

性欲に関しては、安けりゃ良いというものでも無いが、欲望ゆえに抑えることが出来ないのも事実である?

 

で、当時の主流と言えば ストリップ であって、今では踊り子さんを鑑賞するだけの ヘビの生殺し感 は否めないものの、昔は運が良ければ目的を達することが出来ることもあった…(笑)

 

       

 

まあ、あまり詳しくは書かないし、書けないけれど、事実として当時はあったのである!

 

 

 

 

しかし、私が社会人として世に出た昭和57年頃には、「生殺し」は同じであったものの、阪急東通り商店街だったか?

 

ノーパン喫茶 なるものが登場した!

 

 

      

 

 

まあ、要は喫茶店なのだが、床が鏡になっていて、ウエイトレスさんの○○が丸見えであって、普通のインスタントコーヒーが一杯1500円もしたけれど、マスコミの影響もあってか連日大盛況であったのを覚えている。

 

 

ただ、これも後の風俗営業法の規制対象になったため、一気に淘汰されてしまったが、この手法を劇場化したのが、当時は全国区になった あべのスキャンダル というお店であって…

 

 

他にも、「のぞき部屋」や「ラッキーホール」…

そして、今も残る ビデオ試写室 なんかは、この時代の産物であって、そう考えると今の業界の縮図は、この頃にその骨格が出来ていたとも言えるでしょうし…

 

      

 

それまでは、風俗店に行くことが後ろめたいと言いますか、恥ずかしいことのような風潮があった中、この時代から安価な業種がその裾野を広げ、気軽に足が向くようになったのも、大きなターニングポイントだったと思いますね。

 

 

 

 

見えないから見たいという人間の欲望と、オスとしての旺盛な本能が制御を不可能にして財布の紐を緩めたあの時代は、それを生業とする側もあの手この手を繰り出して来るので、色んなお店が乱立していたし、それなりに楽しかったんじゃないかな?

 

そう考えると、やはり昭和50年代後半は風俗業界の激変時代でしたし、いっぱい無駄使いもしましたよね!

 

ですよね? ご同輩!