前回の記事とかぶるような感じだけど、
ゼロ百思考という特質の視点から、見てみようかなと。

 

発達障害の特質に、ゼロ百思考というのがある。

 

私の場合で言えば、例えば、メッセージ的なことを言っている人がいるとして、
良いメッセージが多いと、その人の全てを取り込みたいとなる。
結果、自ら取り込まれることになる。

 

 

でもさ、

その人の全てではなくて、
自分に働くところのみ、取り込めばいいのであって、
それができれば、取り込まれもしないわけで。

(結局、それで、win win なんだよね。)

 

定型の人々は、それが自然にできるのだろうけど。

 

なんせ、発達障害持ちの私は、ゼロ百思考が、真っ先に起動するので、
意識して、取り込むところだけを取り込もうとすることが必要になってくる。

 

対象が人でない場合は、いわゆるのめり込むことで、
良いことがもたらされる場合もあるにしろ、
ダメなことにのめり込む場合もあるから、
自分をウォッチしていることが、必要なことには、変わりない。

 

たぶん、こういうことは、定型の人々は、大人になる過程で、
自然に身につけていくのだろうけれども、

発達障害は、ゼロ百思考が、デフォな脳構造なので、
勝ち負けもそうだし、良い悪いもそうだし、概念的な白黒もそうだし、
自然にしていたら、どちらか一方に偏ってしまうので、
自分をウォッチすることは、必須。

 

愛は、対等さやニュートラルさに、自然と存在するものなので、
どちらか一方に偏れば、態度も行為も、愛のない人に見えるし、
実際、愛が存在しなくなるし。

 

ぜロ百思考に使われてしまう私たち発達障害は、
自分をウォッチしていないと、愛を存在させることもできない。

 

そんなことで、ニュートラル周辺に自分を置くにも、
意識の調節つまみが、言ってみれば、手作り感(?!)満載だけど、
その手作り感に、味を感じてもらえたら、ちょっと救われるかな。