夏期講習と共に毎年、国語担当者に話が来るのが読書感想文の書き方レクチャー。

生徒の中には、書いて!とお願いしてくる輩もチラホラ。

学校によっては授業内で書き方をレクチャーし、そのまま書かせて夏休みの課題とはしないところも出てきているそうで、それはそれでキチンと読書感想文とは何を書くものなのか?授業をしてくれているのでこちらの手を出せずとも完結してくれるのでありがたいのだが、まだまだ投げっぱなしで教員自体が読書感想文とは何なのか?を理解していなかったりするから驚きである。


対象図書の発表もそうなのだが、リンクに主催者側のホームページがついており、そこでは

「読書を通じて心の成長を自ら考え、言葉で表現しその変化を自分で気付く(正しい日本語で)」との事である。

また、引用が必要な場合は最小限に留めて「」で表す。ともある。


だから、本の要約でもないし、読んだ証拠の証明でもないのだ。先ずはここを子どもたちに理解させないといけない。また、字数を稼ぐ為に本文から引用したり、回りくどい表現をすると正しい日本語とは言えなくなるので注意が必要だ。


担当生徒の中にも、自分の気持ちを表現するのが苦手な子もいる。ある種の障害なのかもしれない。今日あった出来事を一生懸命に説明してくれるのだが、それでどう感じたのか?どう思ったのか?自身の気持ちを聞いてみると吃ってしまう。


倫理的な事は取り敢えず置いておくとして、どう感じたのか?どう思ったのか?は個人の自由であり、それこそが読書感想文の本質なので、何を書いても自由なはずだ。

「こう考えたら駄目なのだろうか?こう思うのは間違いなのでは?」と子どもたちが考える時点で、読書感想文の世界観に於いては教育の仕方に問題があったと親御さん達は考えた方が良い。親の考えの押しつけが有ると子どもたちの自由な発想は邪魔されてしまい、凡そ読書感想文コンクールで入賞迄届くような作品には仕上がらない。


コンクールの選者達は子供目線の新たな発見と気付きを欲しているのだから。


コンクール向きでは無いかもしれない危ない発想の持ち主だったり、低学年だと、何でも自分の好きな世界に持ち込んだりも有るだろう。それでもそれを否定しないことだ。

私の生徒でも、取り敢えずゴジラの世界観に落とし込む子供がいる。算数で億や兆という桁を学ぶ単元でも、ゴジラが本気だしたら何億人殺せるかな?とか、ゴジラの等身大をレゴブロックで作ったら一億個は要るかな?などだ。この話が始まると全く計算の手が止まってしまうのだが、彼の話をバッサリ遮ってしまうことこそ、自由な発想の障害となるので、程々のところまでは付き合うようにしている。これが中学受験組であればそんな余裕も産まれないのだが、まぁ学校の補習プラスアルファで通ってくれているので、これも善しと思ってもらいたい。


先ずは課題図書を保護者が読んでみてはどうだろう?そんな時間は無い?たぶん子どもたちも同じセリフを言うのでは無いだろうか?