新年度が始まり近所にも新たな住人が引っ越してきたようでここ数日、トラックやらなんやら住宅街には似つかわしく無い中型、大型車がよく往来していた。

3月末は講師として頑張ってくれていた大学生も晴れて社会人として飛び立つ挨拶として退職のラインが重なっていた。講師経験が活かせる職種職場であることを祈りたい。


そんな旅立っていった講師の中に富山から大学で上京してきた1人が印象的だった。あまり話す間柄でも無かったが喫煙所で一緒になる事もあり、休みにになると富山に帰ること、私が富山に出張に行ったこともある旨話すと嬉しそうにしていた。

また、まだ1回生の講師はせっかく生でアイドルに会える環境なのに忙殺されて思っていたことはだいぶ違う生活になっていることに落胆していた。


私はと言えば杉並区で産まれ育ち親戚一同皆23区内で旅行以外では高校に入るまでほぼそこから外に出ることが無かった。高校を近県に進学し、友達の家に遊びに行くと外灯の無い道があったり送電線の大きさにびっくりしたりタクシーは呼ぶものだと教えてもらったり、ただただ世間知らずだったと驚きの連続だったことを明確に覚えている。幼稚園から電車通学をして小学生の遊び場が東大の三四郎池だったり通学定期が新宿や東京、御茶ノ水、後楽園も範囲だったので子ども同士で地下鉄の1日券でよく遊んだものだった。中学生になると遊び場が渋谷と原宿がメインになり、神保町や日比谷、広尾や六本木にも立ち入ったりしていた。それでも知らない事だらけだったと高校が埼玉であったことを今でも良い選択だったとおもっている。


都会の子どもは、、、等よく言われていたが、国立小学校は農園や合宿所を保有しており6年間毎年何かしらの農作物を植えにいき収穫をしに行き、2年生からは毎年合宿所のある山梨県に行き自然に触れ合い千葉県の海で遠泳を熟し古式泳法まで覚えさせられ十分田舎の生活も知っていると思いこんでいた。


美術館や博物館、歌舞伎や能、狂言やバニョレ、ミュージカルを観るのも当たり前、交通機関の利用も当たり前、身近に何でもありインターネットの無い時代でも神保町の三省堂書店や新宿の紀伊國屋書店、日本橋丸善等大型書店の本店が通学定期で行けてしまう環境を特殊だとはあまり思っていなかった。姉が公立だったので公立と国立の違い程度の認識でしか無かった。妹は私立だったが、どちらかと言えば私側の生活をしていた様子なので、受験はするべきだとは当時から思っていた。


社会人となり、日本全国出張に行くようになると高校で受けた衝撃とはまた別の驚きしか無かった。車が無いと生活出来ない環境、自然の脅威が身近に感じる生活。進学の選択肢が決まっている事。方言を方言と理解していない話し言葉。閉鎖的な考え方、田舎の村意識。東京への憧れ意識。東京に負けていないと言う地方都市の変なプライド。


そんな田舎からたくさんの若者がまた東京にやって来る。どれだけの人数が染まるのか?また敗れ帰るのか?所詮東京は寄せ集めと揶揄する人も多々いるが、知り得る限り父母共に都心産まれの生粋の江戸っ子も当たり前に存在していて、帰るところのない東京が地元人も負けないように頑張っていることもご承知おき頂きたい。