富山城

 

【築城年】仁和元年(885)?/応仁元年(1467) 【築城者】富山重興?/松田元隆

【遺構】郭・堀切・石垣 【形態】山城 【別称】大安寺城

 

【歴史】

 富山城は、平安時代の仁和元年(885)に地元の豪族・富山重興によって築かれたたという伝承がありますが、定かではありません。

 歴史上、城の動向が確認できるようになるのは室町時代の応仁元年(1467)、備前国御野郡(岡山県岡山市北区)の豪族・松田元隆が富山城を手に入れて居城とした以降のことになります。

 山間部の御野郡に拠点を置く松田氏がこの富山城を支配下に置いた理由は、岡山平野へ進出するための橋頭保とするためであったと考えられます。実際に城の本丸からは現在の岡山市街地周辺が一望できますし、戦略上重要な城であったことは間違いないでしょう。

 のちに元隆の嫡男元成は、居城を御野郡の金川城に移しますが、富山城には元成の弟の親秀が城主として配置され、親秀の後は引き続き松田氏一門や重臣が配置されました。

 この間の松田氏にとって主要な敵は備前国守護代の浦上氏でしたが、浦上氏が家臣の宇喜多直家の下剋上によって没落した後は今度は宇喜多氏と激しい抗争を繰り広げることになります。

 しかし、勢力を拡大し続ける宇喜多直家の前に松田氏は次第に劣勢に追い込まれ、ついに永禄13年(1570)、居城の金川城を宇喜多直家によって落城させられたことで松田氏はついに滅亡。同時に支城である富山城も宇喜多氏に接収され、直家は弟の宇喜多忠家を富山城主に据えました。直家はその後、自身の居城として旭川下流に岡山城を築城したため、富山城は岡山城の北方を守る支城となっています。

 以後は、忠家とその息子の詮家(後の石見津和野城主・坂崎直盛)の居城となりましたが、詮家は従兄弟で五大老の1人であった宇喜多秀家(直家の子)とは折り合いが悪く、慶長4年(1599)に宇喜多家中で勃発した御家騒動で秀家と対立。結果的に詮家は徳川家康に預けられる処分を受けます。

 詮家が宇喜多家中から排除された後も、富山城は岡山城の支城として維持されたと思われますが、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で西軍方についた宇喜多秀家が改易され、小早川秀秋が岡山城主になると富山城は廃城となりました。伝承では富山城の大手門は廃城の際に岡山城石手門(戦災焼失)として移築されたと云われています。

 

【構造】

 富山城は、旭川西岸の標高131.6mの矢板山に築かれた山城です。

 城の縄張りは、南北に伸びる山頂部に北から北の丸、本丸、二の丸が直線状に連続して並び、そこから少し下ったところには出丸として南の丸が、本丸とニの丸の東側にも出丸のような名称不明の郭が配置されるというものでした。これ以外にも複数の郭が存在していたようです。

 特徴としてはニの丸と南の丸を遮断する巨大な堀切の存在が挙げられますが、城跡内に点在する巨石を用いた石垣の残欠も目を引きます。富山城は豊臣政権五大老の1人、宇喜多秀家の支城なので、最終段階では総石垣造りの織豊系城郭であった可能性は大いにあるといえるでしょう。

 なお、城のあった矢板山は北側と東側に採石場がある関係で、北の丸や東側の郭群が採石により消滅してしまっています。今も採石は続けられているため、将来的に城そのものが消滅しないか心配です。

 

【感想】

 採石によって遺構どころか城域の一部が消滅しているという、なかなかショッキングな城です。

 実際に城内の一部は、本丸の先が断崖絶壁になっている等、注意しないといけない箇所がいくつか見られました。

 それでも見どころはまだ残されており、特に二の丸と南の丸を隔てる堀切は現地に立てばその巨大さが実感できます。

 

【住所】

 岡山県岡山市北区矢板本町

 

【交通アクセス】

 JR吉備線大安寺駅下車、そこから法勝寺脇の登城口まで徒歩約20分。登城口からさらに徒歩約40分程で本丸に到着。

 なお、登城口は複数あるようです。

 

↑登城道

 法勝寺の先にある水道施設の前から矢板山に分け入っていきますが、こんな感じの道が続きます。

 

↑一部削られた登城道

通称・すべり山と呼ばれている場所ですが、斜面が自然のものとは思えないぐらい滑らかでした。

採石行為に拠るものかどうかは不明ですが、滑り落ちないように注意して進みました。

 

↑南の丸

 登城口を進むと最初に通る郭です。

 見てのとおり内部は樹木が繁茂しており、郭の形がわかりにくかったです。

 

↑堀切

 ニの丸と南の丸を遮断する堀切。

 写真ではわかりづらいですが、現地に立つと思っていたより規模が大きかったです。

 

↑堀切付近の石垣基底部

 堀切の南の丸側には、わずかに石垣の基底部らしきものが見られる箇所があります。

 

↑ニの丸

 堀切を越えてしばらく進むとニの丸です。

 一見ここが本丸っぽく見えますが、まだ先は続きます。

 

↑本丸虎口か

 本丸の手前には両脇に石垣の残欠らしき巨石が転がっている箇所があります。

 位置的にここが本丸へ出入りするための虎口ではないかと思われます。

 

↑本丸

 地面には礎石らしきものも見え、往時はかなりしっかりした造りの建物

 が存在していた可能性も考えられます。

 

↑本丸北側の現況

  本来であれば北の丸が存在した本丸北側は採石によって消滅し、

  御覧のような有様に…

  ここから先は断崖絶壁になっており、怖い思いをしました。

 

↑本丸石垣

 本丸周辺には比較的石垣の基底部が残存しています。

 

↑南側から見た富山城

  JR吉備線大安寺駅横の踏切から見た富山城。

 

【訪城年月】

 平成29年(2017)5月