三石城
【築城年】1333年? 【築城者】伊東大和二郎・浦上氏
【遺構】郭・土塁・石垣・堀切・井戸 【形態】山城 【別称】なし
【歴史】
備前国(岡山県)東部、播磨国(兵庫県)との国境近くに位置する三石城は、「太平記」によると元弘3年(1333)にこの地の地頭で武将である伊東大和二郎なる人物が築いたとされています。この伊東大和二郎は鎌倉幕府滅亡後、朝廷が南北朝に分裂した際には南朝方の武将として活動したようです。
室町時代に入り、備前国守護職を室町幕府の四職の1つ赤松氏が務めるようになると、次席ともいうべき守護代を重臣の浦上氏が務めるようになりますが、三石城はこの守護代・浦上氏の居城として使用されるようになります。(浦上氏の三石城への入城時期は不明)
嘉吉の乱(1441年)以後、衰退傾向にあった赤松氏は、赤松政則(1455~1496)の代に幕府から播磨・美作・備前の3ヶ国の守護大名に任ぜられるところまで勢力を回復するものの、政則が死去すると守護代の浦上村宗(1498?~1531)が主家と対立する中で勢力を拡大。永正16年(1519)、村宗は主君の赤松義村に反旗を翻し、三石城に籠城します。この時、赤松義村は軍勢を率いて三石城を攻めますが、村宗は攻撃に耐えて逆に赤松軍を退けました。
以後、赤松家中における浦上村宗の勢力は一層強大化なものとなり、2年後の大永元年(1521)になると村宗はついに義村を幽閉して殺害します。これにより浦上氏は名実共に赤松氏から独立を果たす事になりました。
三石城の現存する遺構もこうした浦上氏と赤松氏の抗争の中で造られたものでしょう。
村宗死後、三石城主の座は次男の宗景が引継ぎますが、天文23年(1554)に宗景は居城を天神山城(岡山県和気町)に移したため、その後に廃城になったと云われています。
【構造】
三石城は、標高290メートルの天王山に築かれた山城です。
城の南麓には古代から重要な街道であった山陽道が通り、三石は古くから宿駅として栄えていました。
これに加え、三石のすぐ東には播磨国との国境である船坂峠が位置する事から、軍事・交通の観点から見ても非常に重要な土地であった事がわかります。
城の縄張りは、山頂に主郭となる郭1が配置され、そこから南へ山の稜線に沿って階段状に郭2、郭3が、郭1の北には堀切を挟んで鶯丸がそれぞれ配置される連郭式構造となっていました。このうち郭2の西側下には大手口が城から突出するように構えられており、ここは周囲を野面積みの石垣で囲まれた枡形空間となっていました。
なお、三石宿から上がってくる登城道は、そのままこの大手口につながっていますが、途中下から順に第二見張り所・千貫井戸・第一見張り所といった遺構が点在しているため、城域に関しては山頂だけでなく、もう少し山全体に広がっていた可能性が考えられます。
構造としてはシンプルな三石城ですが、特に大手口周辺は敵の侵攻を食い止めるために様々な工夫を凝らしていた痕跡がうかがえます。
前述のように大手郭が石垣で囲まれた枡形空間というだけでなく、大手郭につながる登城道自体、郭3やその直下に位置する馬場からは丸見えで横矢がかかるようになっていましたので、大手郭にたどり着く段階でかなりの被害を受ける事が想定されます。
また、大手口から見て北側、郭1との間の斜面上にも小規模な郭群が点在しており、例え大手口に到達しても今度は頭上から攻撃を受けるような構造になっていましたので、ここを突破するのは至難の技でしょう。
また、郭1の北側の稜線上に配置された鶯丸は郭1との間を堀切で遮断し、独立した出丸となっています。
この堀切は、その西端部でそのまま竪堀に変化して続いていますが、途中で横堀が分岐して大手郭の近くまで伸びています。これにより郭1の西側の防御強化を実現しています。
典型的な中世城郭である三石城ですが、気になるのは城内のあちらこちらに割と大振りな石が散乱しているという点。
本丸と鶯丸を遮断する堀切の先の竪堀にも石や石積の残骸のようなものも見られます。
もしかしたら大手口の石垣以外の箇所でもかつては石垣や石積が構築されていたのかもしれません。
【感想】
本ブログでは久々に紹介する本格的山城。
ここは訪れた時期が12月という事もあって遺構は非常に見学しやすく、楽しめる城でした。
他のサイトやブログでもよく取り上げられる大手郭の野面積みの石垣は、戦国時代のものにしてはしっかり積まれているように感じましたし、石の1つ1つが割と大振りなものに見えました。よその中世山城だと石垣といってもかなり小振りな石が使われている印象がありますので…
あとは、本丸と鶯丸を遮断する堀切。
ここは、岩盤を削って造られた豪快な堀切で一見の価値ありです。
【住所】
岡山県備前市三石
【交通アクセス】
JR山陽本線三石駅下車。そこから徒歩5分で登城口に到着し、そこからさらに徒歩で約50分。
途中岩盤が露出していたり、道が狭くなっている箇所もありますので、しっかりした靴を履いていった方が良いように思います。
↑三石城遠望
JR山陽本線三石駅のホームからも三石城が望めます。
↑三石城登城口
JR三石駅から旧山陽道に沿って徒歩5分程のところにあります。
ここから三石城まで道なりに進みます。
↑第二見張り所と案内看板
登城道を進むと、最初に遭遇する遺構が第二見張り所です。
城の西側の監視拠点であったと考えられます。
↑千貫井戸へ向かう分岐点
途中、第一見張り所の手前だったと思いますが、千貫井戸へ向かう道が右に分岐しています。
左が登城道で、そのまま第一見張り所に続きます。
↑千貫井戸
底無し井戸というおどろおどろしい別名が気になりますが、
岩盤を削って造られた手の込んだ井戸である事がわかります。
なお、登城道の途中には「息つぎ井戸」という井戸も残されています。
↑第一見張り所
登城道から左に分岐した先にあります。
↑大手門跡
大手郭の入口です。周りは野面積みの石垣で囲まれています。
↑郭2下の馬場周辺から見た大手門跡
このように大手門とそこに続く通路は、城内側からは思いっきり横矢
がかかるようになっています。
この地点から攻撃を加えれば大手門に殺到する敵に甚大な被害を
与える事が出来るでしょう。
↑郭3(三の丸)
大手口を突破して最初に到達する郭です。
↑郭3(三之丸)の土塁
郭3の西側に残る土塁です。他の箇所には元々構築されていな
かったのか土塁の痕跡は見られません。
↑郭2(ニ之丸)
郭3のすぐ北側、一段上がった場所にあります。右奥に見える高台は
郭1(本丸)です。
↑郭1(本丸)
郭2のすぐ北側、最高所に位置する郭です。
写真ではわかりづらいのですが、ここはかなりの数の石が散乱
しています。
↑郭1(本丸)と鶯丸との間を遮断する堀切
右側が郭1(本丸)で左側が鶯丸。岩盤を削って造られています。
↑鶯丸
郭1(本丸)の北側に位置する独立した出丸。
三石城の北側を守る重要拠点でした。
↑郭1(本丸)と鶯丸との間を遮断する堀切
堀切を西側方面に見たものですが、広大な堀切である事がわかります。
↑堀切に沿って見られる石積
堀切の縁を見ていくと一部に石積が見られます。
もしかしたら往時の堀切には縁を固めるために広い範囲で石積が用いられて
いたのかもしれません。
【訪城年月】平成28年(2016)12月