霊仙山城


                【築城年】不明 【築城者】不明 【遺構】郭・土塁・堀切

                  【形態】山城 【別称】なし




【歴史】

築城年代・築城者共に不明ですが、少なくとも南北朝時代には存在していたと云われています。

当時、伊予国は南朝方の勢力が進出してきており、北朝方と東予・中予地区で激しい戦いを繰り広げていました。


この地区に派遣された南朝方の指揮官は脇屋義助。

新田義貞の弟で、1342年(興国3年)に伊予に上陸しますが、その直後に病死してしまいます。


北朝方で阿波国守護の細川頼春は、これをチャンスと見て残った南朝方に総攻撃をしかけ、彼らが拠る笠松山城・世田山城(いずれも今治市)を落城させます。

すでにこの頃は国分山城(今治市)が東予地区における南朝方の本拠地となっていたようで、霊仙山城はこの国分山城の支城として存在していたようです。


その後、同城はしばらく史料に出てきませんが、戦国時代にはこの霊仙山城を含む今治地区一帯は、守護大名河野氏の支配下にあったようで、年代は不明であるものの、河野通直の家臣、中川親武が今治に派遣されて霊仙山城の城主に収まったと云われています。


1577年(天正5年)、親武が亡くなると、跡を弟の通任が継ぎますが、1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征討で没落。

通任本人もその後行方不明になり、伝承では30年後の大阪夏の陣で戦死したとされています。


いずれにしろ四国征討後に廃城になった事は間違いないようです。



【構造】

標高157mの霊仙山山頂に築かれた山城。


山頂に本丸、その北側の一段下がったところに二之丸を配置するという至極単純な構造ですが、

本丸からは、瀬戸内海、そして霊仙山城の本城として機能していたとされる国分山城や、南北朝時代に関わりがあったと思われる世田山城や笠松山城が一望でき、ここが重要な場所である事がわかります。


他に目立つ遺構としては本丸の南側に残る土塁の痕跡や、本丸に至る途中に見られる堀切状の窪みが挙げられます。



【感想】

登城道も整備されており、訪れやすい城跡です。

ただ、訪れた時期が4月末だったのですが、大量のクマンバチが本丸を飛び交っていたため、

じっくり遺構を見る事が出来ませんでした。


やはり冬場に訪れるのがお勧めです。


【住所】

愛媛県今治市且・宮ヶ崎字上成乙


【交通アクセス】

今治方面から国道196号線バイパスを進み、高市交差点を右折。

朝倉方面に進み、最初の交差点を左折し、狭い道に入ります。

途中、左手を流れる頓田川を渡る橋に至る交差点が見えてきますので、そこを左折し、川を渡ります。


川を渡ると右手に三嶋神社が見えて来ますので、そこを左折し道なりに行くと霊仙山城主中川氏の菩提寺である円久寺に到着します。

あとはそこから登城道がありますので、30分程登れば本丸に到着です。



←登城道入口

 

 円久寺裏の墓地を突っ切ると登城道の入口がありま

 す。


 ここから40分程かけて登ると本丸がある山頂です。







←堀切状の窪み


 山頂にたどり着く前に見られる堀切状の窪み。

 他にもこういう箇所はありましたが、ここが一番遺構と

 わかるところでした。








←二之丸から本丸を見上げる


 二之丸(手前)と本丸(奥)。

 段差で両郭は分けられています。


 






←本丸


 奥の方に土塁が見えます。

 往時は郭全体を囲んでいたものと思われます。









←本丸から瀬戸内海を望む


 中央右側に見える山が国分山城跡。

 その奥が瀬戸内海です。









【訪城年月】2015年4月