富隈城


           【築城年】1595年 【築城者】島津義久 【遺構】郭・石垣・空堀

           【形態】平山城 【別称】なし


                 

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富隈城は薩摩国の戦国大名、島津義久が豊臣秀吉による九州平定後に居住した城です。


島津氏といえば、16世紀末に九州を席捲した大名としてあまりに有名ですが、1587年(天正15年)以降、九州が豊臣政権の支配下に置かれた事により御家事情が少々複雑になります。


当時の当主であった島津義久は島津家内では反豊臣派でした。

これに対し弟の義弘は豊臣政権に対し協力的であった事から、1595年(文禄4年)に秀吉は義久に対して隠居するように命じ、以後豊臣政権との折衝に関しては義弘が担うようになります。

(家督は義弘の息子忠恒が継承。)


隠居した義久はそれまで居城としていた薩摩国内城(鹿児島県鹿児島市)を退去。

大隅国富隈(鹿児島県霧島市隼人町)に移住して隠居所を築きます。これが今回紹介する富隈城になります。


義久が富隈に隠居所を築いた理由はその立地にあったと言われています。

今でこそ遠のいてはいますが、当時は城のすぐ南側まで海岸線が迫っており、錦江湾の海上交通が把握しやすい位置にありました。

義久はここに浜之市という港を備えた城下町を築き、商業振興に力を入れた事で、城下町はわずかな期間とはいえかなり繁栄したと言われています。


さらに義久は1605年(慶長10年)に同国国分(霧島市国分)に隠居所を移していますが、そこでの城下町形成にもここ富隈での経験が大いに生かされたとの事。そう考えると富隈城というのは単なる隠居所以上の意味を持った城なのではないかと思われます。


富隈城の構造ですが、小山を抱いた本丸とその南側に二之丸を配し、この2つの郭の周囲を石垣と堀で囲むという単純なものでした。

島津氏関係の城郭では平地の居館の背後に詰の城としての山城がセットになっているのが特徴的ですが、ここ富隈城は詰の城を持たない特異な造りをしていたといえます。

一応、本丸内には自然の小山(というよりも丘?)がありますが、ここは詰城というよりも錦江湾を監視する見張所だったのではないかと推測されます。


こうした造りになった背景には隠居した義久の豊臣政権への恭順という意味合いがあったと推測されています。


現在、富隈城は本丸が公園及び島津氏ゆかりの稲荷神社の敷地となり、小山にも登る事が出来ますが二之丸はNHKの無線塔の敷地となっているため、立ち入る事は出来ません。

しかし、北側と南側の一部を除いて石垣が現存し、また堀についても東側に一部にその痕跡が見られます。(北側にも堀の痕跡があるそうですが、未確認です。)


なお、石垣に関しては東側がほぼ完存しており、なおかつ二之丸と本丸の虎口もしっかり残っています。富隈城の見どころといえばこの辺でしょうか。


城へのアクセスですが、JR日豊本線隼人駅からへ徒歩40分程です。NHKの無線塔が目印になると思います。


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←二之丸虎口の石垣


二之丸は現在立ち入り禁止区域であるが、立派な虎口の石垣が残る。

富隈城で3つ残る虎口の中ではここが最大規模のため

城の正門、すなわち大手門だった可能性が高い。









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←本丸東側の石垣

富隈城の石垣の中で一番残り具合がいいのがこの

本丸東側です。

島津氏関係、というよりも南九州の城の中で元から石垣がこれだけ備わっていて且つ残ってる城ってほとんどない気が…


とはいえ、あまり高くないところに隠居所というこの城の性格が表れている気がします。






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←二之丸東側に残る堀跡


二之丸虎口から道路挟んで目の前に残る堀跡です。

当時が水堀か、空堀だったか状況はわかりません。


ここ以外の堀は宅地化されているため、残り具合はあまりよくありません。








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←本丸内の小山から南を望む。


目の前に錦江湾と桜島が確認出来ます。

当時は見張り所としての役割を果たしたものと思われます。


中央の無線塔の真下が二之丸です。






【訪城年月】2012年5月