門司城


【築城年】鎌倉時代中期 【築城者】門司(下総)氏 【遺構】郭・堀切・石垣(一部) 【形態】山城 【別称】亀山城・門司ヶ関山城 


いざ、城跡へ


九州の最北端に位置し、古代から交通の要衝たる関門海峡を見下ろす古城山。(標高175メートル)


現在では、関門自動車道が貫通するこの山にも中世~近世初頭にかけて門司城という山城が存在し、その立地から争奪戦が絶えなかった城でした。



築城は伝承によると、1185年に平知盛の家来であった紀井通資によるものとされていますが、これは前回の記事で紹介した櫛崎城の築城年・築城者と同じく断定する事はできません。


1244年、平家の残党の探索という名目で鎌倉幕府から被官の下総(藤原とも)親房が豊前国(福岡県北部)に派遣されます。

親房の子孫はそのまま豊前国に土着し、拠点とした門司の地名をとって門司氏と名乗ると企矩郡一帯(現北九州市門司区)に一族を配置して在地豪族と化しました。門司城は鎌倉時代中期にこの門司氏によって築かれたとする説が根強いです。



なお、門司は九州の最北端に当たる事から、古代からヒトやモノが都と太宰府の間を行き来する際には必ず通過する場所でした。このため、古城山の下には律令体制期に「門司ヶ関」という関所が設けられており、交通の監視が行われていました。


親房が門司を拠点とした背景には、下総氏を通しての鎌倉幕府による「門司ヶ関」の掌握があったのではないでしょうか。

(ただし、中世以降は門司ヶ関の存在は史料からは消えるので、門司城がその代替機能を担うようになったと考えられます。)



門司城を拠点に勢力を拡張した門司氏ですが、南北朝・室町時代を経て戦国時代に入ると、歴史上から姿を消し、代わって門司城は九州進出を狙う中国の大内氏及び毛利氏と豊後国(大分県)の大友氏の間での争奪戦の舞台となります。


特に1559年と1561年に勃発した門司城を巡る毛利氏と大友氏の攻防は激しく、短期間で毛利領・大友領と変遷しましたが、最終的には毛利氏の管轄下に入ったとされています。


その後の門司城の経緯についてはよくわかっていません。

恐らく1587年の豊臣秀吉による九州平定以降は、豊前国(福岡県)小倉城主である毛利勝信(安芸毛利氏とは血縁関係なし)の支城として機能していたと考えられ、次いで1600年の関ヶ原合戦後には、毛利勝信に代わって小倉城主になった細川忠興の支城となりました。



細川領時代、門司城は海峡を挟んで毛利氏の領国である長門国(山口県)に接していたため、細川氏にとっては領国の北端を守るための拠点として重要な城でありました。

また、毛利氏は関ヶ原の合戦では敗北した西軍の総大将であったため、その動きを監視するための役割も担っていた事でしょう。


もちろん、毛利氏も事情は同様で対岸の細川氏に対する備えとして前回の記事で紹介したように櫛崎城を改修している事から、関ヶ原合戦直後の関門海峡における軍事的緊張感はかなり高かったと考えられます。


このように中世から存在し続けた門司城ですが、1615年に発布された一国一城令によって廃城となった事でその歴史に幕を閉じました。


現在、門司城が築かれた古城山山頂一帯は和布利公園として整備されており、関門海峡が一望できる展望スポットとなっていますが、城が存在した事をうかがわせる遺構はほとんど残っていません。

これは、明治時代に関門海峡の防備を重視した陸軍によって古城山一帯に要塞が築かれた際に遺構が破壊されたからと言われています。


このように近代になっても軍事的理由で重視され続けた門司城(跡)ですが、今回は破壊を免れてわずかに残った遺構を紹介していきましょう。



いざ、城跡へ  古城山山頂の本丸跡です。

 

 現在では「門司城跡」の石碑が建てられています。

 面積はそこまで広くありません。


 ちなみにこの日は生憎の雨でした。

 晴れていれば関門海峡と関門橋を一望出来たのですが…

 残念。(>_<)







いざ、城跡へ
 門司城本丸下にわずかに残る石垣。


 このような姿になったのが一国一城令後なのか、明治時代

 に要塞が築かれた後なのかはわかりませんが、石垣がま

 とまって残っているのはここか、山の中腹にある門の跡(今

 回は訪れる事は出来ず)ぐらいしか残っていません。


 






いざ、城跡へ  門司城本丸の南側、国民宿舎めかり山荘の裏手に第二次

 世界大戦中にビルマに出征した陸軍部隊の戦死者を慰霊

 する世界平和パコダがあります。


 実はこのパコダがあった場所も往時は門司城の郭の1つだ

 ったようで、郭の前面はこのように谷状の地形となっていま

 す。恐らくこれも門司城築城の際に人工的に開削された堀

 切の名残でしょう。





ちなみに門司城全体の構造ですが、古城山山頂に本丸を構え、その南麓、今のめかり山荘と公園がある広場が本丸に続く往時の郭であり、さらにその南、今の世界平和パコダがある郭という形で郭が北から南へ向けて連続して配置されていました。


もちろん、山城である事から山腹一帯に小規模な郭が複数築かれていた可能性は高いですが、現在の古城山は原生林に覆われているため確認する術はありません。

個人的には、関門自動車道の和布利パーキングエリアなんかは当時の郭の跡を利用して造ったのではないかと思うんですがどうなんでしょう…(;^_^A



さて門司城へのアクセスですが、車でJR門司港駅から「桟橋通り」交差点を左折し国道3号線に入ると、あとはひたすら道なりに進みます。トロッコ列車の線路を越えて、ノーフォーク広場を過ぎてカーブを右に曲がるとすぐに「和布利公園」の案内板があるので、そこを右折し後は坂道をひたすら登ります。

登り切ったらめかり山荘がある広場にたどり着きますので、そこの駐車場に車を停めたらそこからは徒歩です。本丸へはめかり山荘の反対側の山の上なので、そこを目指して遊歩道を登ってください。



門司城は遺構はそこまで残っていませんが、関門海峡を一望出来る位置にある事から大内・大友・毛利といった著名な戦国大名がなぜ門司城を手に入れようとしたのか、現地に立つと軍事・交通の観点からその理由がわかると思います。


                                         【訪城年時】2012年3月