いじめ問題についてクラスで話し合うこどもたちの様子をテレビでみた。
傍観者をなくすにはどしたらいいかみたいな。

無理だよね
大人の世界だって傍観ばっかりで嫌になるんだから。


自分が傷つきたくないだの
嫌われたくないだの

そんなことばっかりで

言うべきことも
話し合うべきことも

その一言で すべて終わり。

それ以上 話すことも話せることも何もない。

夫婦、友達、恋人

やだなって思ったら すぐ別れるだの
友達やめるだの

なんでなんだろ。

好きなとこ知るより
嫌いなとこ知ることのほうが大事だと思うのは私だけか?

いーじゃん、別に嫌われたって
好かれりゃラッキーくらいなもんじゃん。


嫌いなとこいっぱい言える友達や恋人のほうが素敵だと思うけどな。



嫌なことは乗り越えずにサヨナラだもん

乗り越えられたら 最高の関係になれるはずなのに、もったいない。


いい関係でいたいから 深い関係でいたいから 内容ある活動したいから
時には 言い合いだって 喧嘩だって必要で それは 嫌いだからとかイジワルで言い合うわけじゃなくて 良い方向へ進むために必要なこと。

どうでも良ければ何も言わない、求めない。

それを言われたからヤダだの
傷ついたから やめます
やりません って



ああ、そうなのね。って言うしかないけど
それと共に私の心は閉店ガラガラ



きっと誰にも何も言われたくない人たくさんいると思うけど
相手が何も言わなくなったら
もういいです の合図

それがいいのか?

それでいいのか?

それが理想なのか?






自分が傍観者でいられるのは
そのぶん誰かが悪役をやってくれてるからでしょ?



自分が余計な手や口を出さなくてもいいのは
その余計な役をやってくれてる人がいるからでしょ?

自分がテキトーでいられるのは
きちんとやってくれてる人がいるからでしょ?



『なにも、そこまで言わなくても』
っていう人は
みんなで傍観してたら
どうなるか考えたことあるのだろうか。


そこまで、いう人が悪い人みたいにいわれ
るけど、言う人がいるからこそ 言わなくてもいいポジションでいられるんじゃないの?って 思う。








自分が今日ラッキーだったってことは
誰かはアンラッキーだったはず


自分が今日勝負に勝ったとゆうことは
負けて泣いた人もいるってこと



自分が幸せだったり楽しかった今日は
どこかの誰かの犠牲や悲しみの上にあるものだよ



って
結婚するとき おしょごに言ったけど
あいつはチンプンカンプンな様子だった。


あの意味ようやくわかったよ

って おしょごが言った。






嫌われるようなことは言わない
辛いことは知らないふり
見ないふり きかないふり


いい人のふり

平和主義とみせかけて

対岸の火事で

自分が傷つきたくないだけ
嫌われたくないだけ

そんな生き方やめなよ


って 何度も何度も言った。


いい人を卒業したおしょごは

なんだか ただの嫌なやつになったけど


昔の毒にも薬にもならないようなおしょごに比べたら

全然いい


今では ただの嫌われものだけど

いい人よりは全然マシ。






別に相手と意見ちがったっていいじゃん
同じじゃなくてもいいじゃん
ぶれなければそれでいいじゃん

意見ちがったって尊敬できる人や好きな人は私はいっぱいいる





10年おくれで

『今ならわかるよ』

が、最近多い おしょご。


なんで、今までわかんなかったかね
ヽ(`Д´#)ノ

とは思うけど 

ほんのちょっとだけうれしい
他人には見えない おしょごの成長


でも おしょごが成長する度に
私のせいで嫌われレベルが上がるのね。



でもね
都合のいい人で好感度あげたって
しゃーないですから。

おしょごも活動も中身のある成長を願います。