山賊から義経一行を助けた祖先は、感謝状と

讃岐の守(さぬきのかみ)を拝命したのです。

讃岐は今の香川県ですね。私はなぜ香川なの

だろうかと考えました。

 

その前に義経公から頂いた古文書は、明治時

代に屋敷が大火のため焼失してしまったので

す。 ただ代々言い伝えにより、私も父から

長文の書を貰っております。

 

なぜ讃岐の守か。義経が活躍した事を考える

に、始めに神戸の鵯越(ひよどりごへ)とし

て、急な坂を馬で駆け下りた言い伝え。

私は神戸時代その崖と言われる所に行きまし

たが、結構な崖でホントかねと思いました。

 

次は讃岐沖での義経の八艘(はっそう)飛び。

これはあり得ないですが。鎧を着て舟から舟

へ渡るだけでも大変なことです。

つまりそれだけ義経は活躍したのです。

それと那須の与一の、平氏の舟が槍を立て扇

を付けたのを打ち落とした事。

大将である義経には、我がことのように喜び

源氏の勝利としたのです。

 

そして山口県の壇ノ浦で勝利し、平家の壊滅を

誘ったのだが。しかし義経はこの時は家来ども

から総スカンをくらっているのです。

しかも頼朝から叱責の書がきて鎌倉に、はせ参

じよとの命令を無視し京に留まったのです。

これで義経の処刑は決まったのですね。

 

義経は讃岐沖での戦いが一番の思い出なので

しょう。それで感謝する人に「讃岐の守」の

称号を与えたのではないでしょうか・・・。  

 

   ひの用心 

 鎌倉時代に当然武家でないので、当家には

 苗字はない。