慈悲の獲得 | Varahi のブログ

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チベット、ブータン等に伝わる瑜伽行者必携の如意宝珠、甘露、聖物等の説明、行法雑記など

 

 

 

だれにでも気持ちの中に輝く光彩としての慈悲(愛,慈愛)があります。

慈悲とは人生であり、人生は慈悲と言えます。

火にとっては寄るものがあって燃やすという力が自然であり、

人にとって慈悲は自然な性質なんです。

 

慈悲は生来 人にあるの資質です。

慈悲は人の生命の息吹そのものです。

私たちは大いに愛情を注いで慈しみ若木を育て、若木が成長し、

やがて枯れた植物になると、私たちは気にもせずに

それを捨ててしまいます。

 

私たちは若木に対し慈しみ、愛情をを注ぎ込み

生命がある限り大切にしました。

植物が枯れて生命がなくなってしまうと、私たちは

慈しむこともなく愛情もむけません。

 

私たちは幼いころから、自分を生み、育ててくれた両親を大切に思う。

けれども亡くなると、嘆き遺体は何の執着もなく焼かれてしまいます。

それまで大切に思ったり愛おしく思ってたものは何なのでしょうか?

 生きているという存在を愛しく思い恩を思っていたわけです。

生命と言うエネルギーは互いに関連し合っています。

現代では都合となり、人は慈悲も愛も生命の関係性を忘れていることが常ですが、

 

慈悲でも愛でも利己心と混ざり合っています。

 

人と言う生命の木には、慈悲という実があります。

この実を味わうためには、まわりの皮をむ剥き

中の種も取り除かなければなりません。

 

皮と種を取り除いて初めて、果実の甘い果肉と果汁を味わうことができます。

 

生命の木の果実は、皮はエゴです。

果実の種は人の利己的な欲求で得た利益です。

 

エゴと利己心が取り除かれて初めて、慈悲という甘い果肉と果汁を

知ることができるわけのです。

 

この慈悲を

甘露、もしくはアムリタと言い、その集大成であり甘露と言う

慈悲そのものの阿弥陀如来である甘い蜜のような果汁、果肉として顕れた

パドマサンバヴァと言い、それの結晶として甘露を残されました。

 

そうしてその果汁は生命そのものです。

それは法身、真我の輝きとされています。

 

その果汁は人に無死性を授け、至福で満たします。

 

今日、人はこの慈悲の原理の意味を把握することができません。

それは本質的な仏性です。

 

それゆえ、

「すべての慈悲は仏性であり、慈悲に生きなさい。

 愛は神であり、愛に生きなさい」などとと言われているわけです。

 

しかし、現代のほとんどの人々は感覚的な快楽や世俗の対象に夢中になり、

それらへの執着を愛だ慈悲だ善だと思っています。

 

利己的な追求や興味に浸っているので、勝手な都合と理由だけから求め、

超越的なことには見向きもすることはない。

すべてを自分の充足と喜びのために望み、日々を送ります。

 

慈悲は叡智の輝きを経験するためであるということなんです。

 

善人の偉業は、どのような状況や事情の下に置かれても、

まったく衰えることはないように、

このような霊性の光彩はあらゆる生き物の中に輝いています。

慈悲はこの光彩の表現であり、この慈悲を表すために

人は忍辱を常弦覚悟をしなければならないとされているわけです。

砂糖を作るための砂糖きびの茎を砕かずして得られ無いのと同じように、

 

人の内側にはは、慈悲や愛や慈愛と言う蜜で満たされた

砂糖きびのようなものなのです。

 

その蜜が身体から流れ出すことができるには、苦難が訪れ忍辱を行っている

ときだけとされ、身体の問題、精神の問題、心の痛み、

心を改革し思考と気持ちの制御なくして、どうして経験することなどを

期待できるでしょう? 

 

自分の側での苦は何もなしに、技法や行や信仰などや

他力によって解脱を期待します。

 

それほど簡単には得られません。

 

疑似的感覚で現れるものは、生来の体質由来です。

 

自ら積み上げカルマとなって、形として肉体と合わさり

生まれ持ってきたものです。

 

それを今の出来事行為のせいだとすることは間違いです。

対処的にいくら行っても無駄です。

本気で徹底的に行を繰り返すことで体質はすべて整います。

 

現代医療のような対処療法は一過性であることを知らなければ、

また日常で作り上げてしまうわけです。

 

放棄と言う犠牲という対価無に交換できると思うのでしょうか?

なぜ都合と言う手抜きをしたものを最高のものですと言い

差し出すことができるのか?

 

当たり前と言う保身、当たり前と言う利己性

 

人がすることはすべてが利己心から生じています。

 

最初にしなければならないことは利己性を手放すことです。

 

利己的な自惚れや自意識過剰、自己愛、所有欲は

制限しなければ何一つ変わりません。

 

頭は純粋な慈悲の中に沈めなければいけないのです。

 

我慢するのは忍辱ではありません。

 

我の慢との葛藤です。

その反動は早かれ遅かれ反映することになるんですね。

 

そうして抑え込むだけでは抑圧意識となり、無意識下で動くことになってしまうわけですね。