日課の様にいろんな

音楽評論家さんの
ブログ(書き物)をチェックしていた
今日の午前中...
田家秀樹さんのブログを見て
ポン友:今野悦夫が
亡くなった事を知った

まだ
私が20歳の頃
東海大学在学中に
静岡県清水にあった
ディスコで初めて
今野と遭遇した

グロリアゲイナーの
never can say goodbyeを
スピンした瞬間
客席からスクッと立ち上がり
ハマチャチャを
(※横浜で流行っていたマンボに似たステップ)
踊り始めたのだった

初めて見るステップに
DJとしてのプライドを捨て
今野に話しかけたのを
今でも覚えている

当時
横浜のリンディで
踊っていた今野が
越境して静岡にあそびに来たんだ!
得意げに話していた

DJのかけ出しだった私は
今野から教えを乞う形で
横浜や東京のディスコカルチャーを
レクチャーしてもらった

同じ歳と言うこともあって
いつしか
週末は
毎週横浜から静岡の
私のアパートに転がり込み
まるで
当時私がスピンしていた店
(crazy horse)の専属ダンサーかの様に
踊りまくってくれていた

大学卒業まで今野とは
そんな腐れ縁で
彼は神奈川大学
私は東海大学をそれぞれ卒業
22歳でバラバラになった

お互い
その後どうしているのか?
気にもせず
15年?20年?が
経とうとしていた時
千葉のラジオ局で
再び遭遇する事となる

そう

記憶に新しい
bayline火曜日のディレクター
bayline火曜日のDJとして
今野x伊津野→第2章が
スタートする

今野悦夫は
神奈川大学特待生
ディスコダンサー
ディスコDJ
ラジオディレクター
日本語教師
英会話講師と

私と比べれば
昭和を生きた男としては
エリートな遊び人だった

晩年
FM横浜制作の
「横浜洋琴物語」で
総合演出を担当
見事 日本民間放送連盟賞
    優秀賞を獲得している

ポン友でありながら
ラジオの灯りを決して
絶やしてはならない!と
常に闘う精神で
CUEを振っていた漢(おとこ)だった

「baylineを卒業して
俺はりょうちゃん
裏番組やるよ!」と
私に言い放った
彼の眼光は今も忘れない!

「bayfmを俺は大好きだけど
大好きだからこそ
他局に行って
bayfmを追い込みたいんだよね!
いつまでも戦ってほしいから」

あの時から
今野悦夫と伊津野亮は
ポン友から対峙するライバルと
なった!

私は
結婚式にも彼を呼ばず
夕方のラジオ激戦区を
闘う戦友として
昨日まで何の連絡も取らず
過ごして来た。

聞けば
NACK 5で
阿部真央のインタビューを
完パケして
その後
後輩DJとクラブに繰り出し
突然倒れ
帰らぬ人となったようだ

動脈解離

享年61

宿命とは
皮肉なモノ

まだまだラジオで
戦い続けたかっただろうに
無念だろうなぁ

しかし
今野
安心しろ

首都圏にある
全てのラジオ局で
ディレクション/CUEを
振ってきた
漢(おとこ)だから
お前の魂は
きっと絶える事はないよ!

木曜日
横浜でお別れらしいが
行けたら行くよ!

またな!