仙台、石巻 | DJOASIS 自主規制なし Powered by アメブロ

仙台、石巻

おつかれ。

6日の夜中に東京を出て、仙台でDJして来た。
そして、次の日に石巻へ行って来ました。

自分が見て感じた事を書きます。

ただ、自分は、2日間しか被災地に居なかったので
正直何もわかって無いと思います。
被災地の方々に対して失礼な部分があったら申し訳ありません。


7日の昼前に仙台市内に入った。
天気も良く、ゴールデンウィークという事もあって
街には、多くの人が集まっていた。
まず、俺自身が感じたのは、街に居る人達の元気の良さ。
もちろん、笑顔で街を歩ける環境じゃない人も多いはず。
でも、街に出ている人達は、本当に笑顔で楽しそうに歩いてる。
そんな街を歩いてると所々にカラーコーンが立てられ
建物の一部分に近づけない様になっている場所がいくつもある。
何かな、と思ってその場所の上に目をやると
建物のタイルが剥がれていたり、9階、10階くらいの部分の窓が
ガラスがなく窓枠だけになってたりする。
揺れの恐怖だけじゃなく、上から物が落ちてくる危険性
それをあの窓を見ながら想像すると
地震という物が、ただ逃げれば良いだけの物じゃなく
その時の判断、冷静さ、注意力、決断力
そういう物を瞬時に考え、決め、行動する必要がある物なんだ
という事がよくわかる。
9階くらいからガラスが降って来るんだ。
想像するだけで恐怖しかない。

夜のイベントで主催者の人や地元の人達と飲みながら話をしたが
本当に皆が元気に笑って話をしている。
ただ、2ヶ月経っての今であって
それまでには、俺の想像もつかない苦労や時間があったと思うが
イベント側の人達もお客さんも本当に元気にしていてくれる。
俺や離れてる人達の方が深刻に考えすぎなのか?と思うくらい。
逆に被災地の人達に多くの元気をもらった。
ちなみに、俺のDJ中は、最近では、感じた事のないくらいの
盛り上がりを見せてもらって、本当に楽しいイベントだった。
もちろん、元気があると言っても、いまだに深刻な部分もいっぱいあるし
俺達が出来る事は、出来るだけしていかないといけない。
でも、東京での自粛や過剰な心配
それは、逆に被災地の元気を無くすんじゃないか?そう俺には、思えた。
たとえば、被災地から東京に避難している人達に対して
俺達は、少しでも元気や安心をわけてあげたり
感じてもらえる様にしなくちゃいけないのに
この東京の夜の暗さを見たら新たな心配や不安が増えるんじゃないか?
そんな気がしてならない。
夏に向けての節電慣れ、これが必要なのは、よくわかるが
東京は、電気がついてなさすぎる。
暗すぎる。
仙台市内は、街の電気もネオンも今まで通りついている。
エネルギー供給元の違いという事もあるが
もし、今この仙台市内の電気が東京の様に暗かったら
まったく違っていただろうし、元気を出そうと思っても出るわけない。
俺は、何やってんだ?何で俺達が被災地の人達に元気もらってるんだ?
そんな事を思いつつ、今まで外から見て感じていただけの
いくつかの自分の考えを改めた。



次の日、昼過ぎから石巻へ向かった。
仙台市内から高速で1時間くらい。
太平洋から数キロの場所に通っている高速だ。
市内に居る限り、そこまで被害は、見えて来なかったが
高速に乗ると風景が変わってくる。
乗って少しすると太平洋側に広大な敷地の田んぼが見えてくるが
そこには、流された瓦礫や車がいまだに残されていた。
距離的には、少し離れているが、離れている事で視野が広く
どれだけ広範囲に津波が来たかがよくわかった。
といっても、それもほんの一部の範囲しか見えてない。
高速道路があった事が、海側の反対側の地域に対しての防波堤になった様で
高速を挟んで左右の状況が対照的だった。
広い空き地には、今までに見たことも無い規模で積み上げられた
大量の瓦礫の山が何箇所かにまとめられている。
本当にちょっとした山くらいの大きさになってるんだ。
ひらけた場所も過ぎ、山の間を走る道になる。
山の間をしばらく進んで行くと、ちらほらと民家が両側に見えて来る。
車から見ているだけだと、屋根が修復されているのが見えるくらいで
事の重大さは、あまり感じれないくらいの風景だった。
途中途中、崖崩れの跡があり
今後の崖崩れ防止の壁が何箇所も作られていた。
しばらく海沿いの地域が目に入らない山の中なので
一瞬、震災なんかなかった様な錯覚にも襲われる。
朝は、ものすごい雷雨だったが、この時は、晴天。
今までの普段通りならば、最高のドライブ日和だった。

石巻の少し前になると、山もひらけ街が見えてくる。
ここから徐々に津波の跡が目に入ってくる。
何事もない様な平和な町並みに見えるが
細い川沿いを見ると、瓦礫や冷蔵庫が転がったまま。
仮設トイレも色々な場所に置かれている。
でも、崩れたりしている家は、ない。
行き行く人達も普段通りの生活をしてる様に見えるくらいだ。
それは、高速を降りても少しの間続く。
下の道を走り津波の被害から数キロの距離に来ると
街の様子も変わりだした。
道路沿いの建物、お店等は、しっかり建ってるんだが
ガラスの中を見るとめちゃくちゃだ。
多くのお店が営業してない。
窓ガラスには、津波がどれくらいの高さまで来たか
くっきりと跡が残ったままだ。
駐車場等の開けた場所にある瓦礫の山が目立ちだす。
自分達の会話もこの頃から無くなりだした。

下の道を走って20分くらいすると、港街に入るが
ここからは、目に入ってくる光景に愕然とするばかり。
もちろん、信号なんてまだついてない。
俺が見た限りでは、小さな交差点ごとに
兵庫県警の人達が手信号で車を誘導している。
24時間体制なんだろう。
まわりの電柱は、斜めになり倒れ、商店街の店舗は、崩れ落ちてる。
家が横倒しになり、斜めにゆがみ、屋根が道路の高さにある。
アパートの階段の部分だけが残り建物がない。
車が転がり、倒れ、積みあがってる。
街全部が瓦礫の山だ。
言葉にならない。
石巻の港街を見守る様に山があり、そこに神社がある。
その神社は、本来ならばお花見のスポットらしく
八重桜が満開だった。
神社に登ると港街を一望出来る。
本当ならばすばらしい景色なんだろう。
空も綺麗、海も綺麗、山も木も花も空気も綺麗。
でも、ちょっと下を見れば、見える範囲すべてが瓦礫の山だ。
神社から港街が見える場所には、多くの花が供えられ
多くの人が街に向かって手を合わせてる。
街中を車で走っている時は、周りの光景にただただ愕然としたが
神社から見ると、目に入る場所ほとんどが瓦礫の山。
いま車で通って見た光景がこれだけ広範囲におよんでいる。
自然と涙が流れる。
自分1人、人間1人の無力さも感じてしまった。
ただ、被災地の方達は、本当に強く生きてる。
瓦礫の街中でも、自分の家やお店を片付け、水をまき
通りすぎる人達がみんな挨拶をかわす。
「こんにちわ」「おつかれさまです」「ご苦労さまです」
自衛隊の作ったお風呂の前も通った。
そこに居る人達は、笑顔だった。
笑顔なんだよ。
あの場所で育ち、今この状態にある人達が笑顔でお風呂に来ている。
お風呂が作られている敷地の隣の家は、崩れて斜めになってるんだ。
俺なんて本当に小さい存在なんだ、という事がよくわかる。

イベントの主催者の方のおばさん一家が神社のすぐ下
(港街から神社までは、100段前後の階段で上がる距離)
に住んでいたのだが、みなさん津波に流されていると聞いた。
神社から階段を降り、瓦礫の港街も歩いたが
これだけ近くで実際の状況を見ると目に入ってくる物が全然違う。
360度瓦礫の山だ。
戦争を知らないが、戦争より酷い状況に見える。
そして、自衛隊の人達が瓦礫の撤去を休み無く続けている。
各家の前にその場所で集められた、各家庭の持ち物が置かれてるんだ。
ぬいぐるみ、写真、アルバム、卒業証書、子供たちのバッグ
手紙、割れた食器。
体重計まで置かれてる。
壊れた体重計でも、その家庭にとっては、大切な物であり
行方不明の方につながる何かのきっかけになるかもしれない。
神社からだと瓦礫の山にしか見えなかった場所だが
近くに来ると、そこに住んでいた人達の歴史や気持ち、生活が見える。
まとめられた荷物に、まったく手がついていない様な家庭が幾つもある。
ここがどこで、何があったのか、一瞬わからなくなる様な瞬間もあった。
それだけ、想像を絶し、悲しい状況が石巻には、あった。

帰りに神社に向かって階段を登っている時
よく見ると、津波が来た跡が残っているのがわかった。
潮の跡が白くなりコンクリートに残ってるんだ。
それを見てまた愕然とした。
家の形もない瓦礫の山から20メーターくらい奥まって
階段が始まっていて、その水が来た跡が
下から10段、15段の高さなんだよ。
それだけの高さなんだ。
ほんと、目と鼻の先なんだよ。
ちょっとの距離なんだ。
それが生死の分かれ目の線だった。
悔しく、本当に悲しい。



神社を後にし、行政の入っていない明友会という避難所に行って来た。
千葉さんという方がまとめている避難所。
今は、60数名の方達が避難してるとの事。
色々なお話をさせてもらった。
地震が起きてすぐ、千葉さんは、自分達が動かないとダメだ
と思い、自分から近所の人を集めこの場所に避難させた。
2階建てなんだが、避難させている時に(地震から40分後)に
津波が襲って来て、水がせまってくる中、子供お年寄りを
千葉さんがヘドロでドロドロになりながら2階まで連れて行ったみたいだ。
僻地とかじゃない、海岸から3、4キロの場所の避難所。
なんで、行政が入ってる入ってないという状況が生まれるのか?
という事を聞いてみた。
そうすると驚く答えが返ってくる。
千葉さんや、周りの方達が一生懸命になり物資や発電機等を集め
地域の人達との硬い団結をし他の避難所にないくらいの活動をしていると
それを見た行政の人間が「ここは、ほっておいても大丈夫だね」
という事でまったく相手にされなかったらしい。
もちろん、多くの事で困っている人を優先にすべきだが
そんな事ってあるか?
見た目だよ、見た目。
じっくり話をしたうえで決めた事じゃなく
見た感じ平気そうだからって。
そして驚くのは、電気の話。
俺が行った時TVがついていたので気にしていなかったが
電気が通ったのも3、4日前との事。
そして、その送電に関して石巻役所が言った事は
「ここは、結局建物をつぶし更地になる場所だから
そこにわざわざ電気の工事をして通すのも」
と言われたらしい。
避難所の隣が市民会館なんだが
そこには、それなり早い段階で電気が通り
夜も電気がずっとついている。
そんな酷い話ってあるか?
千葉さんは、一言「石巻の役所は、ぜんぜんダメ」と言っていた。

千葉さんに、今何が必要で、何がいらないか聞いてみた。
1番必要なのは、子供が遊ぶ粘土等とお年寄りに使ってもらうシーツやマット。
子供達には、絵を描く道具がいっぱい行き渡っていて
絵を描く、という事は、多くの子供達が出来ているが
その他の娯楽が少ない、と言っていました。
お年寄りには、皆さん避難所で硬い床に無理やり薄手のマットや
新聞紙を敷いて寝ているため、床ずれが多くのお年寄りの問題になっていて
少しでも厚手のシーツやマットが必要だとおっしゃっていた。
逆に必要ないのは、洋服だと。
洋服が多く集まりすぎていて、だんだん「何色の服ない?」
みたいに言ってくる人も出てきてコーディネイトしだしてるくらいだ
と笑いながら教えてくれた。
あと、食料もだいぶ行き渡っているとの事。
注意しないといけないのは、レトルトカレー等大量にもらうみたいなんだが
そのレトルトを暖めるためにガスコンロで暖めると
今度ガスボンベのガスがどんどん無くなってしまうとおしゃっていた。
離れた人間が物資を持っていったり何かをする場合
ちゃんと何をするべきか確認してからする、それが本当に重要だ。

避難所という物は、やはり暗かったり元気がなかったりするのかな
と思って来たが、この避難所に関しては、それが間違いだった。
場所によって、まだまだメンタルケアが必要な避難所があるだろう。
でも、この避難所は、まったく違う。
お酒もある、ジャン卓もある、60人みんなが家族で笑顔で話をしている。
そして、避難所にいる人達が他の被災者に何が出来るのか?
という事で、届けられた物資を、まだ物資が行き渡ってないエリアに届ける。
自分達の役目(仕事)をみつけて行動する
それが1番の元気の源だとおっしゃっていました。
この避難所に来た時、再度、外の人間は、過剰に心配しすぎてると思い
心配じゃなく別の気持ち、新しい行動、これを持っていくのが
俺達離れた人間がすべき事なんじゃないか、と思った。

またギドラで近々仙台に来る事を伝え
次来る時に俺に何が出来るか考え
またこの明友館に戻って来たい、と千葉さんに伝えて石巻を後にしました。

東京に居るとどうしても原発の事の方を意識してしまってた。
もちろん、原発の問題も大問題で考えなくては、いけないが
石巻の人達と話をすると、原発、放射能の事より
まだまだ自分達には、やらないといけない事がある
それがとてもわかった。
石巻や被災地は、ある程度の時期から見ると落ち着いているかもしれないけど
復興に向けての根本的な部分は、あの日からほとんど何も変わっていない。
俺達は、原発だけじゃなく、被災地に対しても
まだまだ出来る事がいっぱいあるはず。
それを考えていかないといけない。

ちなみに、避難所のリーダー千葉さん
ご自身でも言っていたが、石巻じゃ有名なガチのギャングスタ。
本当に大変な時に味方になるのは、国じゃなく
地元を愛する人達なんだな、と思った。