ふとTwitterを開くと、あなたがTwitterを始めて9周年になりました」と表示された。

2014年に開設したTwitter、正確には2009年にTwitterを始めて1度消して再度始めたので14年くらいになるのだが、人生の半分近くTwitterを使っているのかと思うと不思議な気持ちだ。



長い年月SNSを使用しているとSNSが生活の一部となってしまっている感覚になり、私は愛煙家ではないが、それがまるで習慣かのように「起床してTwitter」「コーヒーを飲みながらTwitter」「食後にTwitter」みたいになってしまっている。いいか悪いかは別の話だし、おそらくいいとか悪いとかっていう話ではないだろう。





Twitterを利用していたことで様々な楽しい体験をして、様々な素晴らしい人たちに巡り合うことができたのはとても良かった。


それとは別に私が1日のうちでSNSに触れる時間が比較的多い気がしているので、全く触れないというわけではないけど少し生活スタイルを見直そうという気持ちになった。



飲酒や喫煙と同じように長く続いていた習慣をある日突然止めてしまうというのはそう簡単なことではないし、止めて何をするのかと聞かれたら特に決まっているわけではない。

でもずっと読んでいなかった本を読んだり、携帯電話も持たずに街へと出かけてみたり、部屋の模様替えをしてみたり、まとまった休みを取って当てもなく旅をしてみたり、とやりたいことの候補は沢山ある。





SNSを眺めている時間は私に一時の楽しさを与えてくれる。しかしSNSは私のことを幸せにできない。自分を幸せにするのは他の誰でもない自分自身だ。


刺激的なニュースやスクープを知ることができ、さまざまな真新しい情報が並び、友人や知人たちが今何をしているのかそこには表示され、自分が発信した投稿に知り合いたちからのリアクションが付く。中毒性は高いだろう。

しかしSNSが生活の中心になってしまっていると、SNSに載せる為だけの日々を送ってしまう人もいる。それが幸せと感じるかどうかは人それぞれだ。




何がどうなって、どういう状態になると人は幸せになるんだろうか。それこそ本当に十人十色、百人百色だろう。そこにフォーマットなどというものはない。


SNSで他人からたくさん反応が付くこと、称賛されることこそ幸せだと感じる人も勿論いる。

好きな人と過ごすことに幸せを感じる人もいるし、音楽を聴くことで幸せを感じる人もいるし、スポーツを行うことで幸せを感じる人もいるし、一人で過ごすことに幸せを感じる人もいる。


幸せの感じ方は人それぞれだから、それぞれが幸せな状態でいられるのならそれでいいのだと思う。

しかし他の人や物から得られた幸せ、もらった幸せな気持ちというのは持続しないことが多いから、やはり自分を幸せにするのは自分なのかなと感じる。


これは他人の助けを一切借りずに自分の力で全てをどうにかするということではなく、自分が幸せになるために自分で自分を幸せに導くように仕向けることを指している。





SNSは手段であって目的ではない。いい距離感で彼らとうまくやっていけたらと思う。







日々の生活が忙しいことを言い訳にしてすっかりとコーヒードリップをする習慣を失ってしまっていたけど、1年くらい他所に置いたままとなっていたコーノのカラードリッパーとの久しぶりの再会が嬉しかったこともあるし、忙しなく過ぎていく日々は生活から彩りを容赦なく奪っていくから目の前の出来事に気を取られて大事な何かを忘れずに少しでも自分の時間を楽しいものにしていこうという気になった。



だんだんと暖かくなってきたかと思うと急に寒くなる落ち着かない春の訪れは出会いと別れの季節を過ぎるとあっという間に夏がやってきてしまうから、一瞬しか楽しめない春のひとときを噛み締めるかのように楽しんで過ごしていきたい。