あいつらの言う「(暗記ではなく)考えること」とは、結局何の根拠もない(基礎知識にすら基づいていない)何となくの、手前勝手な、その場の思いつきにすぎなかったのだ。自分の精神の劣性から来る感想でしかなかった。「考えること」=思考は感想とは違う。感想は具体的な何かに支えられていない。まさに日本の(特に)小学校の国語教育そのものだ。

 

学力とは、具体と事実の積み重ねであり、主観や感想は排除される。なぜなら馬鹿に抽象性は必要ないし、むしろ子供の発達段階において危険である。教育に理念があるとすれば、教師が厳密な知識を授け、徹底した理解と、徹底した暗記の上で、子供たちに正しい解決への手段を与え、初めて思考なる脳への正当な困難へ導けるのだ。

 

戦後のリベラル教育(嘘リベラル教育)は敗退した。授業中に机に黙って座っていられない児童を学校にもたらしたもの、その正体は、日本人のアメリカ・リベラル思想の誤謬によって引き起こされた「自由」とは名ばかりの符号である。