私は日本人(またこの主語である。自分のことを棚上げして)の言語能力に問題があると前回書いた。また続きを書く。長く書くべきテーマになりそうだ。一生をかけて取り組むべきかもしれない。
私が大学受験勉強を始めて、現代文を勉強してわかったことがある。文章の読解力とは何かという問題に答えが出た。それは筆者の意図や主張、つまり言いたいこと、それも自分が一番言いたい、読書にどうしても分かって欲しい点を読み手が正確に理解するということである。
私たちは小学校から国語教育を受けてきて、どれほど日本語能力が身についただろうか。現代文のテストだけでなく、日常生活においても相手が本当に言いたいことをどれほど理解できているだろうか。
私には、ほとんど効果をあげていないと結論付けるしかない。私はほとんど自分の主張が理解されていないと憤りを通り越し人間関係に不安を感じることがしょっちゅうだ。
相手が真剣に悩みを相談したい時、それを真摯に聞き取り、正確な理解をしなければ人間として不誠実だと私は思う。
あなたの身近な誰かが恋人と悲しい別れをしたとしよう。その人は恋愛の不和の始まりから最終的な破局までのどこを最も分かって欲しいのだろうか。苦しみは自分自身にしかわからないと人は言う。最終的にはそうなのだと私も思うが、そこまでいかなくても単に相手の言葉の意図が読み取れず、デリカシーのない見当はずれな励ましをしていないだろうか。
失恋の痛みを、苦しんでいると分かって欲しいだけなのに、恋愛中の細かなやり取りの失敗を後悔しているのだと誤解され、今度は上手くやりなよなどと言われたら、相手はどう思うだろう。これでは、誰も私のことを理解してくれないと、苦しみがさらに増してしまう。
相手の言葉を正確に理解しようとすることは、人として誠実な態度なのだ。そのために国語で読解や解釈の学力を体得する必要があるのだし、書き手と話し手の言葉に敬意を払う態度を身につけさせるべきである。そしてそれは教師の使命である。この点に無自覚であれば教育者としてのネグレクトであると言わざるを得ない。
今回は言葉を正確に読み取る能力を軽んじてはいけないと、読解力の必要性を私が思うところを簡潔に書いた。次回はもう少し踏み込んで内容にしたい。