これから書くことは、当時の、長男と私の記録です。  今から約25~30年前
今とは時代も状況も違っていたことを残しておきたくて、こちらに記すことにしました。
 
 
 
私には、自閉症の長男(成人 軽度知的障害 30代前半)がいます。
言葉を話すようになったのは3才過ぎ、
話すことよりもひらがな、カタカナ、漢字に強い興味と拘りを示し、3歳で話すより前に時計の読み方を覚えました。
 
 
当時は、母親が子育てをするのが当たり前と考える時代背景もありましたから
とりわけ、母親は責任重大だったと思います。

 

 

それは、自閉症の特徴に関しても同様で

"原因は、母親の躾という先入観が非常に強かった"、ということです。
 
 
当時の自閉症のイメージは、いわゆる"カナー型の自閉症"です。
息子のような、 非常にアンバランスな能力の積極奇異型タイプの自閉症児には
当時の自閉症という概念が当てはまらず
支援もなければ、福祉もありませんでした。
それは、私には信頼のおける専門の相談相手、公的機関が
皆無だったという事です。
 
 
長男が自閉症とわかったのは「小2」のとき。
紹介状で、遠方の都内の数少ない、自閉症児の専門病院に罹ったときのことで
そのときはじめて、
「典型的な自閉症の症状」だと言われました。
その瞬間、抱えていた重責から解放され、道が開けたと思ったのですが
現実は甘くありませんでした。
 
 
一部ではありますが、順を追って、様々な出来事を例に、もう少し詳しく書こうと思います。
 
 
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幼稚園の頃
 
 

比較的家に近い、町立の幼稚園に通っていました。

 

どこの園でもそうだと思いますが、先生のお話を聞いた後、
「先生さようなら、皆さんさようなら」… と園庭で、元気な声で挨拶して帰ります。
ところが長男だけは、皆と一緒に並んで挨拶することができませんでした。
 
 
他のことに気を取られたり、走り回ったり、声を上げたり…
とにかくじっとしていられません。
そんな中、長男は
定位置に立ち、先生の目をしっかり見て挨拶するまでは、家に帰さないという
他の子よりも特別に、指導が厳しいものになってしまいました
指示どおり挨拶できたことは一度もありません・・・
 
 
そのやり方ではむしろ、パニックになり逆効果なのです。
まして、目を合わせないのは自閉症の特徴なのです。
 
 
私は毎日
まだ赤ん坊だった次男を抱きながら、園の送り迎えをしていました。
先生方からは毎回、厳しく叱責を受けた後に、
私は罰を受けるかのように、建物の前に1時間近く立たされていました。
暑い日も寒い日も・・・
長男が帰れる許可がおりるまで1時間ほど、立っていました。
 
 
長男は、自閉症特有の感覚過敏の症状もあり
園の帽子が被れず
靴下が履けなかったり… 
それらも
幼稚園の規則が守れないこととして、厳しく注意されるのは日常のこと
 
 
子育てには、努力してもできないことがあります。
「できるまで・・・」と一生懸命になればなるほど
子供は不安定になり、私は傷つきます。
 
 
園からは、「発育の遅れがあるのは、お母さんの愛情が足りないから」と日常的に言われ続け
限界でした。
孤独でした。
絶望でした。
 
 
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一年生になったとき 
 
 
小学校は普通学級しか選択肢がありませんでした。
長男にとってはレベルが高すぎましたが
特別支援学校の入学許可が下りなかったんです。
そのことは後述しますが
入学して、2か月経たずで不登校になってしまいました。
 
 
当時の小学校の不登校は、どんな理由であろうと"問題行動 (非行の要因)" とみなされていたため、
それらの圧力がとても厳しく
長男だけでなく、私も苦しみました。
苦しい時代だったと思います。
 
 
ある日をきっかけに、それまで唯一親身になってくださっていた教頭先生の態度も一変します。
手の離せない長男を前に
「担任たちから聞きましたよ! お母さんは過保護に育てている (他の先生方の憶測)というではありませんか!!」と
手の平を返すような態度になりました。
 
 
そもそも長男は、定型発達や健常児と一緒の条件には、無理があるのです。
生活力や発育は、同年齢の子に比べたら、すごく遅れています。
知的障害があり、小1とはいえ、生活力は2~3歳児程度でした。
 
 
担任や養護の先生から、「病気ではないくせに・・・」と言われた言葉、今も忘れられません。
ここに書けないことはたくさんありますが
これこそが、当時の教師、そして社会全般の先入観だと思っていました。
 
 
このとき公的機関に相談しても、自閉症に関する知識がないために
スムーズに伝わらず、誤解されることばかり・・・
結局は私ひとりで、試行錯誤でやっていくしかありませんでした。
 
 
 
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特別支援学校から入学を断られた理由
 
 
話は前後してしまいましたが、特別支援学校の体験入学をしたときのことです。
 
私は、担任の先生方やクラスの子たちと夢中で遊ぶ様子や表情を見て
この子にとって一番必要なのは、このように接してくれるこの学校だと確信しました。
長男が集団で、先生と心を通わせるかのように楽しそうに笑っていたんです!
本当に感動しました。
にも拘わらず
その後に行われた面談で、面接担当の教師に断られてしまったんです。
 
 
大きな理由はやはり、見た目が健常の子に見え、一部の学習能力が突出しているからだそう・・・
そしてもうひとつの理由は、パニック(癇癪)を起こしたときに、他の子にケガがあったら大変だから・・・という理由です。
 
 
こんな理由があっていいのでしょうか。
長男はきっかけがなければパニックは起こしませんし、心のやさしい子です。
もっともっと、長男ことを知ってほしかった・・・
 
 
断られたことは本当にガッカリでした。
なぜなら、私の住んでいる地域では
進路の選択肢が、普通学級以外なくなってしまったのですから…
 
 
たしかに長男は時計は読めましたが
会話は主語しか喋れなかったんです・・・
漢字は読めましたが、
誰かが側についていないと、人の話が理解できませんし
自分の物と他人の物の区別が曖昧だったりして
生活力が非常に低く
周りの助けがなければ、周りにまったく関心を示せなかったのです。
 
 
『これだけできるのだから、あれもできて当然』 という大きな誤解が周囲にはあったのです。
 
 
※ 支援学校へは、中学部から進学することができましたが、高等部になり二次障害で不登校に・・・
 
 
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「児童更生施設」を勧められて・・・
 
 
それでは、どのような進路を勧められていたかというと
学校ではなく、 「児童更生施設」 に預けるという選択肢です。
 
「児童更生施設」に見学にも行きましたが、そもそも自閉症の知識がなく
長男に関して言えば、良いとは思えない環境でした。
 
生活力の遅れのある長男にはレベルが高すぎましたし、現実的ではありません。
職員さんは、自閉症の特徴を理解してもらえるような感じではなく
知的障害のある長男がやっていけるとは到底思えませんでした。
 
 
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遠方の支援学校の、限界
 
 
小5になった時のある時期に
静岡県県西部の、病院内の支援学校に善意で受け入れてもらえることになりましたが
(自宅は静岡県東部です。)
 
しかし、数か月後に校長先生から
「〇〇君は思った以上に拘りが強く、これ以上みることは不可能になってしまいました。」断られたこともありました。
 
 
 
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ここから先は、当時の私の心と体調の変化です。
 
 

私は、未だに「学校」という場所が苦手です。考えただけで苦しいのです。

心も体も、受け付けられなくなってしまいました。(複雑性PTSD)

先生方に何度も何度も言われた言葉です。
「お母さんがこんなことじゃダメでしょう!」
 
 

その結果、心身のバランスを大きく崩していました。

 

 

頻繁に動悸や過呼吸の発作、みぞおちの痛みがあり
園の毎日の送迎、学校への送迎時や、家庭訪問の時など、
園や学校に呼ばれた時の激しい動機や眩暈、吐き気、嘔吐、
得体のしれない恐怖感は毎回襲うようになります。
 
その後病院で"狭心症の疑い"と診断されニトロを携帯し薬物治療も続けますが 診断が違っていたようです。
 
 
私は、自分の存在そのものが罪深いんだと、そういう感情に支配されるようになっていました。
(微小妄想と希死念慮が強く出てきていました)
 
 
私が存在していること・・・それだけで長男はダメになってしまう という、
歪んだ感情と
私は世界で一番悪い母親に違いないという罪業妄想が強くなって
どうしたら母親としての責任をとれるのだろうか・・・と
そればかり考えるようになり
 
 
新しい朝を迎えるたび、長男を前に、生きることに望しました。
今日1日をどうやって持ち堪えようと、絶望していました。
生きているのがこんなに恐怖で、つらいことはなく
どうやって責任をとろう、自死しようと思うようになっていた・・・
 
 
 
多分この時点で私はうつ病にかかっていたと思います。
精神科病院を受診するようになったのは、それからずっと先のこと・・・
現在、再発と回復をくり返す反復性うつ病ですが、
早期に精神科病院に罹らなかった(気づけなかった)自分の責任もあると思っています。
 
 
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自閉症だとわかったのは「小2」の時
 
 
小学生になり、罹りつけ医から紹介状を渡されたので
藁をもすがる思いで遠方の、東京の児童精神科の受診しました。
このとき私が知りたかったのは、私の何が悪い(原因)か…です。
なぜなら私は、それまでずっとずっと、周囲に 「だめな母親だ」 と、叱られ続けていたのですから・・・
 
 
そこにきて、医師から出た言葉は、「典型的な自閉症の症状」 です!!
「お母さんの育て方が原因ではありませんよ。」と言われたときは
驚きを通り越して、力が抜けてしまった・・・
まさかの展開に涙が止まらなかった。
それは、ずっとずっと私の背中に大きく覆いかぶさっていた罪悪感から解放された瞬間です。
もし、このとき紹介状がなく受診する機会がなかったら…私はすでに、ここには居なかったと思います。
 
 
 
とはいえ・・・
私が、学校にそれを伝えても、周囲の対応が変わるわけでもありません。
まだ"発達障害"という言葉がなく、自閉症も知られておらず
病院と学校の連携もなかった時代です。
私の口から周囲や学校に、
知られていない自閉症の情報を理解してもらうことは、非常に難しかったです。
 
 
その後の風当たりも強く、
「私の知り合いの自閉症児と全然違うけど、本当に自閉症ですか?」と問われることも
しばしば・・・
まだまだ未知の障害だったんですね。
 
 
 
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あれから20年~30年近く経とうとしています。
 
やっと最近になって、自閉性スペクトラム障害の理解が進んできて
本当に良かったなと思うのですが
 
 
 私は、時間から取り残されているような感じです。
 
 この苦しみは、簡単に解決できるものではないことを知りました。
 

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次男への思い
 
 

私は長男のことで余裕がなく、身体も弱くなってしまい

次男のことは、どうしても後回しになっていました。
悲しむ私の姿を見.ることも多く、夫と喧嘩しているところを見て傷ついたこともあっただろうし、幼いながらも耐えさせてしまったな・・・と反省しています。
 
けれど二男は小さな頃から、私に気を気遣いをしてくれる優しい子供でした。
折り紙や粘土で宝石を作り、プレゼントしてくれたりする子でした。
(二男は世間一般でいう、優等生でした。)
 
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今は、我が子たちの小さい頃の、確かにあった家族の楽しかった思い出を
パズルのように繋ぎ合わせたい。
確かにあったしあわせだった時間たち。
最近やっと見ることのできる、懐かしいアルバムの数々。
あの時だからこその、かわいらしさ。
つらかったはずの私の笑顔・・・
 
当時から思っていたのは、「今は今しかない」という事・・・
なのにある場面が頭からポッカリと消え、バラバラになっている。
 
子育てを通じた体験は、何度もできるものではないので
これは一生の宝にしようって、今だからこう思えるのだろうけど
そのときはその日1日を生きることで、精いっぱいでした。
悔やむことはあるけれど、生きていて良かったとはっきり言えます。
 
 
 
 
 
 

ふうせんかずら

ふうせんかずらの実の中に
あの子の心が見えました

ようちえんの帰り道
あの子はわたしにくれました

お手ゞに乗った種粒は
お手紙よりかうれしくて
宝石よりかしあわせで

まあるいハートの種粒に
あの子の笑顔が見えました