何か、感情が動く時、瞬間的な反応として、何を見ていて、どう感じるか。


そこにこそ、その人自身が創る現実があります。


同じ出来事が起こったとしても、視点や感じ方が全く異なります。

見る対象が違えば、感じることも変わり、

見る対象が同じでも、感じることは違っていたりもします。


その人自身が見て、感じるもの。


自分にとって、嫌だと感じる出来事が起こった時、怒りになる人もいれば、悲しくなる人もいて、

出来事よりも相手を見ている人もいれば、悲しくなる自分を見ている人もいる。


人の数だけ真実がある。


正解も間違いもなく、その瞬間的なものにエネルギーは存在します。


上書きでは意味がなく、瞬間的なもの。


コントロールもできない。

思考上では可能かもしれませんが、そこにエネルギーは存在しない。

何故なら、常に思考は過去だからです。

思考上での解決は、過去との対峙に過ぎません。


その瞬間に、思考とは裏腹に動いているエネルギーに、ジャッジなく、いかに委ねられるか。


それが自分を信じるということだと、私は思います。


こうしないとこう思われる。

こうしないと嫌われる。

こうでなければならない。

こうするしかない。


エネルギーを止めるあれやこれやに溢れているからこそ、自分に戻る。


本当は、外側の声とは、外側にはなく、

数々の外側の声を採用した自分でしかない。


時に、思考するのも大事ではありますが、思考だけでは過去と活字の堂々巡りの旅でしかありません。


思考したことを、日常でどう生かすか。

日々感じていることをどう行動していくか。

生きるということと直結します。


そして、その瞬間に心から委ねられるか。

それが生きる振動となり、出来事を起こし、結果として受け取っていくだけです。


自分であるという在り方は、何のテクニックも必要なく、誰の許可も必要ないのです。


粛々と受け取っていくだけです。


これをやっているから、これを持っているから、もない。


自分の内側にそんな空間があったことを、今更ながら気付きました。




見たくない自分も、認めたくない自分も、受け入れたくない出来事も、余すことなく見つめて、

色んな自分に触れていくことが、自分に近づいていく唯一の方法です。


瞬間のエネルギーを味方につけたいならば、

抗いながら、矛盾に気付きながら、逃げながら、自分という存在に近付いていけばいい。


まずは、そこから。



Kazumi