宋
唐が滅んだ後の五代十国時代 の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋 代に入ると宋の創始者趙匡胤 の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。また、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試 と呼ばれる。殿試の魁選に一甲及第した進士を三魁と呼んだ。状元 、榜眼 、探花 の総称である。殿試の実施によって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制 を強めるものとなった。
宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石 の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書 ・歴史 ・政治 などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子 』が受験必修の書として定められた。
この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法 や、記述された答案の筆跡 による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法 も出現した。呉自牧著『夢粱録 』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。
王安石の後、司馬光率いる旧法党が政権を握ると更なる科挙制度の改革が行われた。それは、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。
南宋に入ると、官学生や科挙応試者に対する役法・税法上の優免が慣習として成立し、官と民の間に「士人 」と呼ばれる知識人階層が形成される。彼らは階層内部での婚姻を重ねる一方、在地における指導者としての立場を形成していく[3] 。
Wikipedia引用