先日、職場の新メニューのデコレーションを見て、
強い違和感を覚えた。
鮮やかすぎる色づかい。
選ばれたフレーバー。
使われている原材料。
私にとっての「魅力的な食べ物」
には見えなかった。
コストや効率、利益といった背景があることは
理解できる。
理由があって今の形になっているのだと思う。
それでも気になったのは、
「なぜこのデザインになったのか」
という部分だった。
きっと企画段階では、
いくつもの案があったはずだ。
別の色使い。
別の表現。
別の組み合わせ。
その中から今の形が選ばれている。
けれど現場に届くのは、
完成写真と作業手順だけで、
その選択の背景までは共有されない。
作り方は分かる。
でも、なぜそうしたのかは見えない。
私はそのとき、商品そのものに
不満を抱いたのではなく、
「意図が見えないこと」に物足りなさを感じていたのだと思う。
これは単に好みの問題ではなく、
自分の中にある“判断基準”が反応している感覚だった。
その夜、不思議な夢を見た。
家に数人を招き、グループコンサルのような場を開いている。
私はまず飲み物を用意しようとして、
「何でもあるから好きなものを言ってね」と一人ずつ希望を聞いた。
それぞれ違う飲み物のリクエストが返ってくる。
私はそれを叶えようとして準備に向かうが、
なぜかうまく進まない。
段取りが崩れていく感覚だけが残る。
どうすればいいのか分からないまま、
選択肢だけが増えていく。
みんなお茶でいいだろうか。
水にしてしまった方が早いかもしれない。
メニュー表を作っておくべきだったのか。
それとも持参してもらう方がよかったのか。
焦りだけが積み重なっていった。
目が覚めてから気づいたことがある。
私は「相手の希望を叶えること」に意識を向けていた一方で、
「自分が何を提供したいのか」という軸が抜けていた。
そもそも、その場の目的は何だったのか。
もし、
「今日はリラックスして過ごしてほしい」という意図があれば、
温かいお茶を用意するかもしれない。
もし、
「自由に楽しんでほしい」という意図があれば、
セルフサービスという形になるかもしれない。
意図が先にあるだけで、
選択は一気にシンプルになる。
この一連の出来事を振り返る中で見えてきたのは、
「選ぶこと」から先に動いてしまう
自分の癖だった。
私はこれまで、正解を探すことが多かった。
どれが一番良いのか。
何を選ぶべきなのか。
どうすればうまくいくのか。
しかし、実際にはそこではなく、
「なぜそれを選ぶのか」という前提を先に持つことだった。
そして前提が曖昧なまま選択を重ねると、
選択肢が増えるほど思考は重くなる。
職場のメニューへの違和感も、夢の中の混乱も、
同じ場所を指していた。
それは「正解が違う」という話ではなく、
「意図が共有されていない構造への反応」だった。
そして、その反応の奥には、
もう一つ別のものがあった気がする。
それは自分の中に確かにあるはずなのに、
まだはっきりとは言葉になっていない“基準”のようなものだ。
何が心地よくて、何がそうではないのか。
何が整って見えて、
何がどこか違和感として残るのか。
それは毎回ゼロから考えているのではなく、
すでに内側では働いているのに、
まだ外に取り出せる形になっていない。
だからこそ、外のものを見たときに、
そのズレだけが先に浮かび上がる。
違和感は、間違いを知らせるものではない。
自分が何を大切にしているのかを
浮かび上がらせるものだ。
自分の中にある意図や価値観が反応しているサインなのかもしれない。
私は、何を大切にしたいのか。
何を届けたいのか。
その意図が明確になるほど
選択は自然とシンプルになっていく。
正解を探すより先に、
自分の意図を見つめていこうと思う。
