なんともはやの「狂人ぶり」を見せつける「かの国の人」は、歴史も自分都合で修正を厭わないし、
ファンタジィー的妄想に酔いしれる・・・。
こんな銅像を造って、何が面白いのか「他の目」を気にすれば、とても出来ない常識は
通用しないのだから、「意思疎通」なんて完璧に無理というものである。
ところが市井の人の認識を無視して、メディアの「ご注進度」は、今更ながらに意識の周回遅れ
に気づかぬまま情報発信をしてしまうから、信頼度がだだ滑りに陥ってしまう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://sn-jp.com/archives/7708
自由さんのツイート
Q.中韓から反発があると思うが?
高市大臣
「どの国であれそれぞれの国のために命を捧げられた方をどのように慰霊をするか
というのはそれぞれの国の国民が判断することでございます。これは決して外交問
題にしてはいけないし外交問題ではありえないと私は考えます」
こんな質問をしたのは共同通信か?
終戦記念日の閣僚による靖国神社参拝が4年ぶりに復活し、安倍政権で最多の4人
が参拝した。
4閣僚を数えるのは、小泉内閣の2004年以来だ。
保守色の強い顔触れが昨年9月の内閣改造で入閣したのが直接の理由だが、
靖国参拝に反対する中国や韓国への配慮が政府・与党内で薄れていることも背景に
あるとみられる。
「中国や韓国から言われることではないはずだ」。衛藤晟一沖縄・北方担当相は15日の
参拝後、記者団にこう強調。
高市早苗総務相も「決して外交問題にしてはいけない。あり得ない」と両国をけん制した。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020081500424&g=pol
https://anonymous-post.mobi/archives/2523
衛藤担当相 靖国参拝「中韓からいわれることではない」 記者に反論
衛藤晟一領土問題担当相は終戦の日の15日、東京・九段北の靖国神社を参拝した。
閣僚の参拝は4年ぶりで、記者団の一部から「中韓からの反発が予想されるが」と質
問されると、衛藤氏は「われわれの国の行事として慰霊を申し上げた。中国や韓国か
らいわれることではないはずだ。そういう質問のほうが異常だ。
こういうことを七十何年間続けてもしようがないのではないか」と述べた。
https://www.sankei.com/politics/news/200815/plt2008150020-n1.html
昨年9月に新たに構成された安倍晋三内閣の閣僚4人が、
太平洋戦争終戦日(敗戦日)の15日に靖国神社を参拝したこと
について、日本の有力日刊紙である朝日新聞が16日付の社説で
厳しく批判した。
https://translate.googleusercontent.com/translate_c?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その昔、日本放送協会から、この「東京だよ、おっかさん」がはじかれていたのは、それだけ
日本のメディアの卑怯・卑劣、そして腰抜けぶりが際立っていたからだろう。
メディア・スクラムやらロンダリングで「内政干渉」をこれまでしてきても、日本国民からしたら
「うるせえ奴ら」としか思えないのだが、メディアでは「洗脳させねば」の歪んだ意識が延々と
続いているから、「自分らの主張に異を唱える」のは、右翼とかのレッテル貼りに終始。
そんなんで「先人を辱めて喜ぶ変態」に、国民は辟易している。
さすれば、以下のような楽曲の一節で、笑い飛ばせる。
お鍋の中からボワッと「インチキおじさん登場」は、もちろんメディアの中の人と理解すると、
すべてすっきりする快適な歌。
で、真夏のこの時期、良く放映されるものに「戦争物」があって、その一点を見たので、
それをかいてみたいと思ったのだが、それはなんともな感想しかでないので、これまで
エントリーしてきた「女性戦争犠牲者」ものも・・・。
日活で撮ると、こんなんになりますの「悲劇の物語」なのだが、何より悲惨さはわかるのだが、
相手の攻撃がとってもチープな特撮なので、爆弾投下して爆発してから飛行機が飛んでくるってな
ましてその実機は予算の都合か一機のみでだから、見ていて口あんぐりであり、それなりの作りからも
感情移入できないので、うっすらとした観賞になってしまった。
大和撫子の哀しみ「樺太1945夏 氷雪の門」
テーマ:日本映画
「戦場のなでしこ」を取り上げれば、こちらも取り上げないわけには行かない。
満州の哀しい出来事は、南樺太でも起こっていた。
こちらも日ソ中立条約の一方的破棄により窮地のうちに、非業の死を遂げた
女性達の物語である。
この映画は、当時のソ連からの横槍で、一般公開されることはなかった。
ということになっているが、これは製作者側の思惑ともあって、各地で小規模
公開はされていた。しかし大々的に劇場公開はされなかったものである。
それをVHSにて、公開したのが祭られている「靖国神社」の遊就館であったが、
今ではDVD販売もされている。
ただフィルムが現存しているのであれば、再び命日となる八月二十日に公開
する劇場があれば、より広く見てもらえる環境が整う、あんな中国人の作った
「靖国」の喧伝でない、大和撫子の悲惨であるが壮絶な死が、理解出来ると
思う。物語は戦禍のそれほど酷くない樺太の真岡郵便局の電話交換手の、
日ソ中立条約を破っての、突然のソ連侵攻に対する真摯な職業として最後ま
で通信という手段を守り抜いた九人の「青酸カリ」による服毒自決を扱ったもの
で、涙なしには見られない映画となっている。
下に詳しいサイトからの引用を参照してもらえれば・・・。
映画では集団自決した女性の身体の上に、ウサギが何も知らずに乗っている
というシーンもあり、そのはかなさは言いようがない悔しさも映像から溢れてくる。
「ある通信兵のお話」サイトからの引用
---------------------------------------------------------------------------------
当時、南樺太(現在のサハリン、北緯50度以南)には、40万人以上の日本人が住んでいましたが、
比較的に平穏な状況下でした。
しかし、ソ連軍の侵攻により、突如として戦場となったわけです。
日本軍は約3万人の将兵がいましたが、航空部隊は皆無でした。
日ソ中立条約との関係から、対ソ戦に備えた積極的な準備行動が採れていなかったものと思われます。
優勢なソ連軍に対し、非力ながらも徹底抗戦した日本軍の奮闘のおかげで、ソ連軍の侵攻が遅れ、そ
の結果、北海道の分割を避けることができたのです。
沖縄戦については、戦後、あらゆるメディアによりその悲惨な情況が紹介され、当時のことを知る人は多い
です。しかし樺太については、何故か人々から忘れ去られていました。
ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていま
した。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。
この時、最後まで残った9人の女子決死隊が電話局を死守し、本土との電話回線を確保していましたが、
ついに電話局が砲撃を受け、全ての電話線がソ連軍により切断されました。
回線が切断される直前の悲痛な電話、
「これが最後です。さようなら、さようなら」
を最後に、9人の乙女達は青酸カリを飲んで自決したのです。
最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」
彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。
当時、無線は、局相互の中継回線が輻輳した際に、待ち合わせている次の電話番号を送る
ために使っていました。(速度は分速50字程度)従って、電話回線で「さようなら」と告げた後に
「可香谷主事補」が最期の「サヨウナラ」を無線で通報したそうです。
有線の電話も無線連絡も、受信した電話局は「稚内電話局」です)
この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退し
たといわれています。殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。
可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)
高石ミキ 24才 吉田八重子 21才
渡辺照 17才 高城淑子 19才
松崎みどり 17才 伊藤千枝 22才
沢田きみ 18才 志賀晴代 22才
九人は靖国神社に祭られ、同神社の遊就館には「九人の乙女」の写真などが安置されています。 沖縄戦の「ひめゆり部隊」は、映画、図書などで戦争の悲惨さを痛切に感じた人は多かったことと
想いますが、旧樺太の凄惨な戦い、それも8月16日以後に起きたことは、案外に紹介されることが
ありませんでした。
「真岡局」での悲劇は、終戦の詔勅が放送され、人々が「やっと戦争が終わった」と安堵していた、
『8月20日』であることが問題なのです。
ソ連軍の侵略は、「ポツダム宣言」を受諾する旨を天皇が全軍、全国民に対して通告した5日後の
ことです。勝者なら何をしてもよいのでしょうか?
それにしても、人は絶対絶命の境地に立ったとき、自分では考えられないような気力と度胸が湧く
ことを、これらの方々の行動から察せられます。
http://okigunnji.com/ohanashi/backnumber/te117.htm
-----------------------------------------------------------------------------
引用終わり
下の画像は、樺太島民慰霊碑。
■樺太島民慰霊碑 氷雪の門
かえらぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、
昭和38年8月に建立以来、稚内市では毎年8月20日に、樺太ゆかりの人々によ
る慰霊祭を行っています
碑文
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
戦後はその門もかたく鎖されたそれから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くな
った多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原
豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あ
たたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石
を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がったこの記念
碑を氷雪の門と命名した
戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は
深く頭を垂れ、冥福を祈られました。次の御製、お歌が残されています。
【樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる】
【からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる】
http://sakurakaido.kt.fc2.com/hyousetsu_t.htm
「靖国神社に祭られた乙女たち」
この映画は樺太の悲劇を綴った物語であるが、他にも北海道が今、日本の領土としてあるのは
下にリンクした島での、日本兵の孤立無援の戦いがあってであり、悲劇の島は沖縄だけではない
し、むしろ日本兵の果敢で国民を最後まで守り通した功績は称えられるべきである。
http://sidenkai21.cocot.jp/m582.html
「占守島の戦い」
大和撫子の潔癖で高尚な精神は、このニ作品ともに哀しい結末となっているが、今に伝えられる
事がなくなった。
だけに「ひめゆりの塔」の悲劇もあるが、今ではそれも変な利用のされ方であり、とても書いてみた
いと思えなくなった。
「人権」を上段に抱えながら、教育に携わるのであれば、ここはやはりこういった映画を子供に見せ
るのも一考かと思う。
理不尽に殺される「人権」が過去にあって、それが日本人であった事実は消せないのである。
そして「ビルマの竪琴」でもそうであるが、旧来の日本人はとても理知的であり、誇れる民族性を
有しているのを教育していかなければ、あの赤い旗を監視社会の一員が、他国で振り回す暴挙
に嫌悪する大多数の国民にとって、正義とは何かが失われていってしまう・・・。
こんな動画をリンクしておきます。
これも大戦で散っていった「桜花」のアニメである。
それにしても赤い発狂軍団は、後先考えない行動をとって、後も日本で平気な面し
て留学生として暮らしていくのだろうか?。
人間というより鉄面皮な思想は、洗脳と監視の産物で、あの「天安門」で民主化を
訴えて、露と消えた人権は、省みられないのだろうか・・・。
恐ろしい国が、隣国にある・・・。警戒せねばならないのは、食品だけでなく鉄面皮な
人々なのを、長野はまざまざと見せ付けていた。
沖縄・特攻だけでない戦場の哀しみと絆「三十九枚の年賀状」
テーマ:日本映画
沖縄には「鉄の暴風」とかいうアメリカ主導の変な言論が存在して、そこに育
ったメディアは、今では反米ウンタラで「煽動・偏向報道」に勤しむなんとも
なものに育って、やたら沖縄県民を洗脳するのに躍起になっている。
そこには「反日メディア」として「アサヒる」情報機関の影響や変なイデオロ
ギィーに凝り固まった労組とか、沖縄だけが酷い大戦の犠牲者であると、喧伝
して廻っているが、大戦のそれは一般市民がどこにいても犠牲のそれを強いら
れたもので、市井の名もなき犠牲者は存在していたのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
“仇討(あだう)ちの時が来た”沖縄県に揚(あ)がる歓声
日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった、1941年12月8
日の翌9日付朝日新聞「鹿児島沖縄版」の記事の見出しだ。
全国紙も地方紙もラジオ局も、メディアはこぞって開戦をもり立てた。
沖縄タイムス社の初代社長で、戦時中、沖縄新報に在籍した故高嶺朝光氏は著書
「新聞五十年」で開戦時の様子に触れている。
「首里坂下の日本放送協会沖縄放送局でも、いち早くラジオで放送をはじめた。
(中略)翌年三月の放送開始予定を急ぎ繰り上げて電波を流したら、その日のう
ちに那覇のラジオ店の受信機が売り切れたという話だった」
国の一県一紙令で沖縄の地元紙は当時、沖縄朝日新聞、沖縄日報、琉球新報の3
紙を統合した「沖縄新報」のみ。同紙は40年12月から45年5月25日に解
散するまで、沖縄戦のさなかも発行を続けた。
言論統制の岐路になったのは25年に制定された治安維持法だ。高嶺氏は「その
ころの一般的な空気としては、治安維持法に警戒しても、特に深刻に考えてはい
なかった。それが次第に拡大強化、解釈されて自由を侵害する猛烈な悪法になろ
うとは、想像もつかなかった」と回想している。
開戦後、新聞は戦意高揚の役割を積極的に担う。南洋群島などでの日本軍勝利を
大々的に伝える沖縄新報の記事には「死中に活あり「冷静沈着に この一大試練
に勝て」など勇ましい見出しが踊る。
戦時報道は「軍神大舛」の登場で勢いを増す。
43年1月、日米の激戦地だったガダルカナル島で、与那国島出身の大舛松市陸
軍中尉が戦死した。軍部は同年10月に大舛大尉(没後昇進)の武功が軍人最高
の名誉とされた「上聞」(天皇への報告)に達した、と公表。沖縄新報は43年
12月から「大舛大尉伝」と題した伝記ものを、計136回にわたって掲載した。
当時の連載記事を全て保管している大舛大尉の弟重盛さん(84)=浦添市=は
「あくまで戦意高揚、士気を鼓舞する目的で書かれたことは容易に想像できる」
と話す。
戦後、元部下から戦場の実態を聞いた重盛さんは、華々しい美談に彩られた報道
とのギャップにがくぜんとなる。
元兵士たちはガダルカナルの「ガ」を飢餓の「餓」になぞらえ、「餓島」だった
と振り返った。地図も渡されずに上陸し、食糧も届かず、けがをして歩くことも
できない状態で、最後は十数人で敵に向かっていった。
「実際は残酷極まりない戦場だった。当時の大本営は何を考えてこんな愚かな戦
いに向かわせたのか。なぜ撤退命令を出さなかったのか…」
重盛さんの訴えは、職責を果たせなかった当時の報道を穿(うが)つものでもある。
米軍の反攻が一段と激しくなったこの時期、沖縄をめぐる情勢は緊迫化していた。
44年8月には、第32軍の司令官に牛島満中将が着任。
沖縄は「本土の防波堤」としての役割を担わされていく。
沖縄新報は45年1月2日付の社説で「郷土は彼我の決戦場」のタイトルを掲げた。
南西諸島が本土の一部であり、国防内線の最重要拠点である以上、ここを死守す
ることは絶対的に必要-。こう論じ、県民に死への覚悟を説くに至る。
メディアは今、インターネットの普及で激変期を迎えている。「売国奴」「反日」
といった匿名の罵詈(ばり)雑言がネットを飛び交い、書店には「嫌中」や「嫌韓」
をあおる単行本や雑誌があふれている。
メディアの権力への迎合や誤った世論誘導が戦争を引き寄せる。新聞が過去の反省
に立ち、「非戦の砦(とりで)」の役割を果たせるかが問われていることを肝に銘
じたい。
沖縄タイムス 2014年12月5日 05:30
https://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=93309
朝日新聞が、一方的な歴史観に基づき作成したとされる教材「知る沖縄戦」を希
望する中学や高校などに無料配布していた問題で、大阪府松原市の市立小学校が
10月、授業で活用した後に記述内容を「不適切」と判断、回収していたことが
6日、分かった。
この教材の回収が判明したのは初めて。市教委は強姦(ごうかん)の記述を問題
視し、「児童の発達段階を超えた部分があった」としており子供たちにとって適
切な内容かどうか改めて議論を呼びそうだ。
教材は新聞スタイルの学習資料で、昭和20年の沖縄戦について、県内の戦争体
験者らへのインタビューを交えて解説。
日本軍が沖縄住民を虐待する場面が繰り返し登場する。
朝日新聞は主に中学生以上を対象としてホームページ上などで8月末まで申し込
みを募り、全国の学校などに計約38万部を無料で配布した。
松原市教委などによると、今回の小学校は6月、ファクスで6年の2学級分、8
0部を注文して取り寄せ、10月下旬に45分間の総合学習の授業で活用。
約2週間後に控えた広島への修学旅行に向けた平和学習の一環だった。
1学級の授業では、担任教諭が戦争体験者の証言や沖縄戦をQ&A形式で解説し
たページを読み上げた。
教諭が教材を補足で説明したり、児童が質問や意見を述べたりすることはなかっ
たが、授業後に児童の一人が「日本の兵隊が沖縄の人を多く殺したとか、日本の
悪いことばかりが書かれるのはなぜなのか」と保護者に相談。保護者は「殺人や
性的暴行など悲惨な話ばかりで子供が疑問を持った。
一方的な歴史観に基づく教材で、授業で使うのはおかしい」と学校側に抗議した
という。
http://www.sankei.com/west/news/141206/wst1412060032-n1.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
相当に偏りすぎた「メディア」の捏造体質が明らかになってなお、懸命な反日
に励むのだから、教訓として「馬鹿は死ななけりゃ、治らない」は真理である。
慰安婦捏造が明るみになっても、いささかもブレないのかのメディアの醜悪さは、
こんな大戦の犠牲にも発揮されて、一地方だけでなく市井の人の犠牲は相当
広範囲に渡って「日本人皆殺し」のアメリカの野蛮すぎる「無差別空爆」の
ものであってと、なるはずが「まるで日本軍が虐殺した」という洗脳に励む
「決定的な反日」であるを表明している。
戦争といえば「九条」を大上段に掲げて、国民は皆何によって守られていると
すれば「九条」によってであるなんて「世迷言」をつれづれ言い放ってはいるが、
それらの人達が自然災害でも何でもそれらを阻止したなんてのはないし、まして
紛争の最前線で「平和を唱えた」なんてのも、聴いたことがない。
あるのは言論も保証され、平和そのものの日本内だけっのに、笑いが起こる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
集団的自衛権の行使容認に反対する市民グループ「戦争をさせない佐賀県10
00人委員会」が8日夜 評論家・佐高信さんの講演会を佐賀市で開いた。
佐高さんは「今の日本は国民よりも国家が前面に出ようとしている」と指摘し、
戦争への道を進まないよう政治の流れを変える必要があると訴えた。
佐高さんは、集団的自衛権をめぐる論議が「国民を守るため」という前提で行
われていることに違和感があるとし、「自衛隊は国の独立と平和を守るために
あり、国民の生命財産を守るためではない」という元制服組トップの言葉を紹介。
「そもそも軍隊は本当に国民を守ってくれるのか。旧満州や沖縄戦であったこ
とを考えても、疑ったほうがいい」と話した。
また、「ふるさとを愛するように国を愛しなさい」という愛国心教育について
「ふるさとと国家を一緒にしてはいけない。
ふるさとは軍隊を持っていないし、愛を強制することもない」と指摘。国家が
強調されている状況に、危機感を持つよう呼び掛けた。
講演会は太平洋戦争開戦の日に合わせて開かれた。
2014/12/10(水) 12:54:45.32
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/134226
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そもそも軍隊は本当に国民を守ってくれるのか
このイカサマロジックは、どうしたものだろう。
では「市民グループ」が守ってくれるのか、文句を言うやつが先頭に立って敵と戦
うかと反論されたら、一体なんと返答するのだろう。
一方的な批判でなく、では誰が守るとなれば、災害でも何でも頼ざる得ないのは
日本にあっては「自衛隊」しかない。まさか念仏の九条が弾丸を防ぐと思う国民
は存在しない。不戦のための抗弁としてであって、敵に通じる念仏はない。
日本人を貶すに遠慮は要らない「アサヒる」系のメディアは、購読者さへも
俎上に上げて、何が何でも「日本が悪い」方向に持っていこうとする第三国人
に占拠されているようである。
実際、「偏狭なナショナリズム」なる語句も、「かの国」に当てはめるとぴたり
と当てはまるのだから、あちらの民族性を色濃く残す人の言ととして、日本語で
書かれている「かの国の性根」と読み解けば、何のことはない「かの民族性の欠
陥」を書けばそれが日本語であるから、日本批判となるだけのこと。
これらも「被差別部落問題」からの援用で、行政への不当介入から始まって、
市井の善良の日本人の知らないところで、不当な権益拡大へと繋がっている
それがネットに転がる真実を眼にすることが出来て初めて、日本人の怒りと
なったもので、唾棄すべき「擁護」には、圧力に屈したメディアの卑劣さが
滲んでいる。
それが大戦での「日本軍の残虐性」なるまことしやかな嘘、うそが得意の「か
の国の人々」にとって、そこにいながら、そこの良さを享受ながら「日本人
のような感謝」する心が、全くないから何でも書けてしまう。
と、アサヒる報道機関やらの記者というものが、なにものであるか白日の元に
晒されれば「ヘイト・スピーチ」で言論弾圧と来るのだから、物凄い日本人
蔑視ではある。
何より沖縄だけでなく、日本各地に市井の大戦の犠牲者は存在しているし、そ
れら「かの国」のような被害者面しないのは、哀しみは慎ましくぐっと我慢、
の連綿と続く日本の美徳のなせる業であり、間違っても「売春」の業についた
者は「被害者面」など出来ないと名乗り出ないそれを見ても明らかである。
だけに偏屈極まりない被害拡大に躍起となる醜悪な人々を見ていると、哀れ
よりは「人でなし」の怒りも湧いてきてしまうものだ。
一生涯「尊敬」から縁遠い者達の名は「被害者面の反日人種」となりそうである。
で、沖縄だけでなく勤労奉仕は日本全国で繰り広げられたし、そこでは卑屈な
精神もなく「我慢を強いられても、絆の精神性で乗り越えようとする共通の意思
統一」が成されていて、それが平時でなくとも遺憾なく発揮された「日本人の美
徳と清廉な人間性」であった。
そんな一部分を描いていたのが実話のエッセーの映画化の「三十九枚の年賀状」
という映画である。
宮崎のメディアの公募で大賞を受けたエッセーの映画化されたもので、勿論
実話に基づいた「大戦の中での触れ合いと、その後の長い間の「音信を確か
めるような一年にいっぺんの年賀状」のやり取りと、現在では失われたかの
「年賀状に綴られる当時の思いやり」の文章から読み解く「変わらぬ心持ち」
と、短い文章から滲むあのころの思い出と、年に一度の近況と、それだけでも
色濃く滲む絆の力・・・。
薄っぺらな現在の「メール」のやり取りと違う人との繋がりに失われてしまっ
た何かを、静かに教えている。
映画化は、このセピア色の集合写真から始まる。
終戦三日前の夜半、鍼灸院を営む宮崎の西都市の一家庭に緊急の病の友人を
連れた兵士が訪ねてくることから始まる敗戦間近の日本のどこの地でもある
ところの「困っている人に対する思いやり」から、一家を挙げての看病とな
り、そこの一家の年若い娘と兵士のやり取りが軸になって、勤労奉仕が当然
だった女学生の集合写真と、どこまでものどかな田舎の遠景が、空の青さが
そののどかさをより強調する描写から、一閃の飛行機からの機銃掃射で、の
どかな風景に忍び寄って蹂躙する敵の攻撃・・・。戦争中であるを際立たせ
た描写から、この娘が丹精込めた「特攻人形」の製作と相まって、語らずと
も分かり合える心の豊かさのあった大変な時代・・・。
なにより一度くらいの出会いで、印象強く心に残る「たよなかな他人を思い
やる心情」に、ここが日本で、日本人なんだと悟らせるたった一枚のハガキ
の存在・・・。
語らずとも、分かり合える心の絆ってなものを、描かせる三十九枚のやり取り
にこそ、大変な時代の共有と、戦時でも平時でも「相手を思いやる」優しい時
代が、そこに存在していた。
どんな酷い戦争体験も含めて、他人を労わる素養を持つ日本人の生き方として
も、九条の会にはない「どれそれに守って貰える」でなく、誰でもそこに急を
要する人がいれば、援けるのは当然な日本的生き方は、こういった市井の人の
繋がりからも、当時でも濃密な人間関係が覗える。
こういったものが、教材としての「情操教育」には必要であり、どこか貶さな
ければならぬ「曲がった思考法」とは相容れない日本的情緒が映画の中に息衝
いていた。
今では以下のような人々に、声援を送りたいものだ。
といったところで、またのお越しを・・・。