自分の存在意義を「他」で確認する未熟な意識「ザ・ファン」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

以下の画像は、環境汚染の酷い中国の河川ではなく、自称先進国と嘘ぶむ「かの国」の

ものである。


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環境的にはとても先進国とは言い難い現状で、話題にも上らずで惨憺たる結果で閉幕

した博覧会」を開催していながら、この体たらくである。

こういった面を見れば、「背伸びしすぎ」が滲んでくるのだが、何しろ「上っ面だけのプラ

イド」という見栄っ張りだけに、「経済強国」だの、何かにつけて「日本」を枕詞に使って、

「自立」したことのない国家経済を国民に知らせてはならじと、国内向けの報道には、誰

かの助けに縋った「後進国ぶり」を判らせまいとするあまり、難癖の恫喝・強請りで資金

援助を



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日本がお金で恩着せがましくしたのは昨日今日のことではない。何日か前に日本の官

房長官が「さまざまな検討をすることができる」として問題にした韓日通貨スワップ協定

も根が深い。通貨スワップは一種のマイナス通帳で、厳しい時に互いに金を貸す装置だ。

始まりは1997年9月にさかのぼる。
日本は当時アジア通貨の盟主の野心に満ちていた。香港で開かれた国際通貨基金(I

MF)総会で内心を表わした。
「日本が率先してアジアの通貨危機国を救済する」としてアジア通貨基金(AMF)創設

を奇襲提案した。
タイバーツ、マレーシアリンギットが暴落し韓国ウォンまで危険な時だった。当時日本は

6000億ドルに達する米国債を持つ世界最大の外貨準備高を持つ国だった。ドルに対

抗する強い日本円を夢見た。日本の大蔵省の役人らは公然と「日本が米国債を大量に

売ればドルが揺らぐだろう」「中国と手を組んで米国をこらしめるだろう」と話した。ルービ

ン米財務長官は「決してそんなことはない」として力で中国をそそのかし日本を孤立させ

無力化した。
AMF創設は先延ばしされ、日本はアジア通貨盟主の夢をあきらめなければならなかった。
韓国はそのようなAMFを一番最初に支持宣言した。その年の11月、韓国は差し迫った

状況だった。ドルが天井知らずに急騰し外国人投資家はソウルから脱出した。財政経済

院の役人らはあちこちにドルを借りに行った。
オム・ナギョン次官がそのころ極秘に日本に行ったのもそのためだ。同じ時刻に財政経

済院は「AMFを支持する」という声明を出した。金を借りるのに役立つかと思ってのこと

だった。
だが意味はなかった。日本は冷酷だった。「危機の時は互いに助けよう」と言いながら知

らぬふりをした。


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榊原英資大蔵省財務官は冷酷だった。「政府レベルの支援はない」と切った。米国が容

認しないという理由を挙げた。
オム次官は手ぶらで戻らなければならなかった。10日余り後にはイム・チャンリョル経

済副総理が直接飛んで行った。
結果は同じことだった。三塚博大蔵大臣は「韓国を助けるなというのが米国の意向」とし

て手で遮ったという。
わずか3カ月前に自分の口から「韓国が厳しい時は積極的に助ける」と話した確約は履

き古された草履のように捨てられた。韓国は最後の期待をそのようにたたみ、数日後に

IMF行きを選ばなければならなかった。当時の財政経済院高官は「その年に日本がし

たのは150億ドルの資金を韓国から真っ先に回収したことだけ。金を貸さなかっただけ

でなく、さらに雨が降っている時に傘を奪っていったようなもの」と振り返った。

つらい記憶を後にして韓日両国が通貨スワップ協定を結ぶことにしたのは2000年5月。

韓日中と東南アジアが結んだ通貨交換協定、チェンマイイニシアチブを通じてだ。

翌年7月に韓国は日本と20億ドルの契約をする。韓国としては外国と結んだ初めての

通貨スワップ契約で、以後韓米、韓中につながる“外国為替の盾”の開始だった。

日本としてはすべて消えて行ったアジア通貨盟主の火種を生かしたわけだ。2010年に

韓日通貨スワップの規模は700億ドルに拡大した。
このような曲折をよく知りながら日本がまた通貨スワップをうんぬんしている。しかしすで

に外国為替問題は韓国の弱点ではない。2010年以後、外国人債券投資課税還元、先

物為替ポジション規制、外国為替健全性負担金導入の“外国為替の盾3種セット”を用

意した。外貨準備高は世界7位、3000億ドルを超える。相当の波に耐える強固な堤防

を積んだわけだ。日本の“雨が降る時に傘を奪う”というのもこれ以上成功は難しい。

それでも一度ゆがんだからとすぐに他人の弱点、それも自分たちが塩を振りかけた傷を

再び広げる国が日本だ。もちろん「大国らしくない」と無視してしまえばそれまでだ。

しかし気がかりだ。政治の季節、いつどんなことが起きるかもしれない。政権末には国内
政治が国益や国際関係よりさらに重要になるのが常だ。韓国だけでなく日本もそうだ。

任期末大統領の独島(ドクト、日本名・竹島)訪問、天皇謝罪発言もそのような脈絡で見

ることができる。このような時であるほど弱点のない経済強い経済が必須だ。それでこそ

後始末が可能だ。もう一度日本に金を借りに行き門前払いを受けて帰ってくることはでき

ないじゃないか。

以上

   中央日報 2012.08.20
http://japanese.joins.com/article/806/157806.html
http://japanese.joins.com/article/807/157807.html


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若い母親がはまったテレビの韓流ドラマを、夏休みは家に居ることが多い子どもたちも

見るようになった。
ある日、母親に向かって子どもの一人が韓国語で声を掛けた。「オモニ!」。
話の真偽はともかく、韓流ドラマが日本人の生活にかなり浸透したのは確かだろう。

ブームの火付け役「冬のソナタ」のテレビ放映から9年、ファンの裾野は広がり、当初

は衛星中心のテレビ放映も今や地上波が加わっている。映画DVDの貸し出しも好調だ。
水が流れるように日本に入っている韓流ドラマだが、韓国側から日本のドラマを見ると

こうはいかない。
「韓国の地上波放送では日本のドラマの放映が認められていない」。日韓文化交流会

議は最近、こう指摘し、不均衡の是正を求めている。
植民地支配への反発もあって、韓国政府は長い間、日本の大衆文化の受け入れを

規制。日韓合作の映画などに限って公開を認めたのは1998年のことで、第1号は

韓国で孤児3千人を育てた田内千鶴子さん(高知市出身)の人生を描いた「愛の黙

示録」だった。
過去の影を引きずりながらも、韓国では日本発の文化、いわゆる「日流」の小説、映

画、漫画などを受け入れる空気も生まれていた。
その矢先の領有権問題は、日韓の大衆文化の交流にどんな影響があるのだろう。
「反日」「嫌韓」の再燃か。それを乗り越えての未来志向か。一衣帯水の関係が問

われている。

高知新聞 2012年08月20日08時12分
http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=292207&nwIW=1&nwVt=knd
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かの国のマスコミの言い草には、ハッタリと洗脳のそれが色濃く滲んでいて、「恩を仇で

返す」という批判を強弁でやり込めようという意思が見て取れて、これを読まされる国民も

とんだ「勘違い」を押し付けられて、洗脳された思考に「すんなり入り込む」と長年の捏造

を「人間的謙譲さを健忘」したままだから、救いがたい「痛さ」を感じる。

一方日本の地方紙といえば、七十年代の「喪失世代」が会社の上層部を占めていて、

思考法は「学生時代の残渣」を色濃く持っているから、どこか「神になりたかったストーカ

ー」みたいな似非人道的偽善を紙面に散らばらせるから、自虐的とも受け取れる「自傷

行為」大好きと、かの国とは両極端だから変なコラボになって来る。

「恫喝と配慮」がくっきりしてくるのだが、どこまでも変な付け上がりと遠慮の態度に、正常

な歴史認識を持つ日本人は、どちらにも我慢ならない気持ちになって来る。

にしても「張子の虎」ばりにハッタリと恫喝がいつまでも続けられる「履修能力」のなさが、

あのオリンピックでの「顰蹙行為」に繋がり、それへの批判が理解出来ないという「分別の

なさ」を露呈して、その上の「リーダーの狂った言動」となって来て、国を上げての「思慮」

のなさを滲ませてしまって、異常なメンタリティーを世界中に認識させてしまった。


この正常な人間には奇異に感じる異常なメンタリティーも、映画的に言えば格好の題材

とみえてサイコ・スリラーの「狂気を孕む行動」として、よく映画化される。

そんな中に一極傾斜のもっともたるものとしてストーカーを描いたもので、対象物からの

「建前」の言葉に「ああ勘違い」の痛さを観客に見せ付けて、危ない人の行動パターンの

一つの示したのが「ザ・ファン」というデ・ニーロのものだろう。



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http://www.youtube.com/watch?v=-e5Yac9KC30

「ザ・ファン」 九十六年公開作


この映画の監督が「橋から飛び降り自殺」というニュースから、思い出した次第の関連

付けという不純なエントリーだが、怖い狂気に中に「お笑い」がちりばめられていて、それ

が狙いかそれとも脚本のダメさ加減かといえば、それは勿論脚本が「あれれっ」てのもの

で、ただ「お笑い」が出てくる狂気となれば、異常なメンタリティーで、自分では「立派な主

張」が、顰蹙の的となった「かの国のサッカー試合後の馬鹿騒ぎ」と同質な「痛さ」だから

思い出して「くすりと笑ってしまう」ものである。

物語は「売れないセールスマン」役のデ・ニーロが唯一熱狂出来る野球の選手のストー

カーとして社会からオチこぼれていたものがアイデンテティを何とか取り戻すという側面

を持ちつつ、どんどん狂気だけは進行して、果ては物語が破綻していくという「あれまっ」

な展開になってサイコ・スリラーの体裁も「お笑い」とデ・ニーロの残念な作品となっている。

ただ妻子に去られて、仕事も上手くいかない社会の落伍者が「ストーカー的熱狂的ファン」

が選手のお世辞的一言で「頼られる存在」として認知されたことによる「勘違い」からは、笑

いの中にも「不憫さ」も感じて、作品としてはダメだが、そこらは「つかない男の脆弱な性質」

が縋りつく対象の受け入れによって「自己を確立」するという「他のものに対する依存」が

現代社会の病巣と相まっていて、なんとも「精神の脆弱」な社会形成もとなるから、ああ勘

違いでも、それはそれで鈍感な精神として、生きていくには「生活の知恵」かも知れない。


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                     といったところで、またのお越しを・・・。